一応言いだしっぺとして

ちなみに… - Apeman’s diary

岡村寧次の人柄

氏は昔から其の話が兎角自分本位になるきらいある定評の人、其つもりにて聞く事が大事と思う。要するに現在老人共の話や著書には己をかばわんとする不愉快の点が多いので、後世誤る恐れ十分

これは磯谷廉介*1の岡村評。二人は同期の親友。旧旗本家に生まれたチャキチャキの江戸っ子である岡村は、確かにちょっと調子の良いところがあった。彼の軍紀に関する記述も、実は自分はうまくやったぜという自讃的要素が強い。しかし軍紀の悪さそのものは本当のことだろう。これが辻あたりだと、自作自演まで疑わなくてはならないが、岡村はそこまでおかしな人間ではない。

阿南惟幾の人事

阿南が南京を視察したのは、人事局長としての職責から。彼の残した考課の一部が秦郁彦『昭和史の軍人たち』*2に紹介されている。

a板垣征四郎*3(第五師団長):あせりすぐ、南口まずい、山地迂回せず、頭働かず、忻口鎮も策なし
b鈴木率道*4(第二軍参謀長):冷静に過ぐ
c磯谷廉介(第十師団長):良い    
d鈴木重康*5(独混一一旅団長):拙い 
e酒井鎬次*6(混成一旅団長):戦果不良
f田上八郎(歩二四連隊長):最良
g井出宣時(歩八旅団長):功を急ぐ、芳しからず
h西原一策*7(中支方面軍参謀):ポンポンやるので嫌がられる
i藤原武(第六師団参謀):大いに働けり、積極、殊勲甲 
j野田謙吾*8(歩三三連隊長):可、死傷多し
k脇坂次郎(歩三六連隊長):南京一番取り、優秀
l上村利道*9上海派遣軍参謀副長):立派、部内の人気可

後に

人間が如何に積極過ぎると思ふ様にやつたとて神の線より数歩後だ

という言葉を残した人だけに、積極果敢な人物ほど評価が高い。*10
酒井は阿南と同期の学者肌の軍人で、総力戦にも造詣があったが、この後閑職に回され、やがて予備役となった。彼は近衛文麿一派のブレーン的存在でもあったが、北支を転戦中に柳川平助*11に次のような手紙を送っている。

われわれ軍人は、これでもよいだらうか。自分は軍人として非常な疑問と迷ひに陥ちてゐるがこれを解明してくれる道はないだらうか

柳川はこの手紙を示し

いまのうちに軍を統制しないと、この事変は大変なことになる。まだ、いまのうちなら軍の中にも真面目なものがゐるから、早く軍の粛正をやらぬといけないが・・・

岩淵辰雄に言ったという。*12まだ第十軍が編成される前の話。
この頃の阿南についてもう一つ。

満洲の某師団長は名門出身であり戦術家でもあったが、戦力発揮に支障があった。局長は断乎として某将軍を抜擢任用されて名門出身将軍を退けられた。*13

局長というのは阿南を指す。阿南が人事局長時代に交代した師団長で、名門出身と呼べそうな人は、16Dの児玉友雄*14くらいだと思う。もしこの名門出身将軍が児玉であるとすると、抜擢された某将軍は中島今朝吾*15ということになる。その後のことを考えるとなかなか興味深い話ではないだろうか。
当時の軍人たちの間での阿南人気の高さというのは、現在の我々には中々分かりにくい。とにかくその挙措には何ともいえない品があったという。後輩の中には彼は公卿か華族の子弟だと思ってた人もいた。ドイツでも、駅で彼を見かけたある紳士が、見送りの中村明人*16

今出発した貴国人は貴族か

と尋ねてきたそうだ。