終戦模様三題

ルーズベルトからの親電握りつぶしに関して、新史料発見と産経が報じている。記事はこちらにある。しかし正直どこら辺が新発見なのは分かりかねる。この話自体は昔から言われてたはずだが。まあこういう記事が出るということは、これを元にした本が出るんだろう。以上は余談。



これらも古本まつりの戦利品

『あゝ厚木航空隊』相良俊輔
『夏の空』相良俊輔
いずれも終戦直後の厚木航空隊の叛乱を描いた作品。内容もかぶっている部分が多いが、敢えて言えば前者は司令小園安名大佐の占める割合が大きいが、後者は小園が倒れた後も志を変えずに蹶起したガンルーム士官が占める割合が大きい。

台南空といえば、笹井醇一、坂井三郎、西澤広義、太田敏夫らを擁した日本最強部隊であるが、小園はその台南空の副長兼飛行長として大東亜戦争を迎えた。その後台南空が内地に帰還し二五一空となると、小園はその司令に補された。彼は早速愛弟子の遠藤幸男を呼び寄せ、また斜銃を案出した。試験的に斜銃が取り付けられた陸偵は、遠藤中尉、工藤重敏上飛曹らの操縦によって対B-17に威力を発揮し、制式化されて夜間戦闘機月光となった。後に遠藤はこの月光で、B-29撃墜王と呼ばれるようになる。しかし中央部は小園を、兵術思想を乱す輩として嫌った。横鎮附に左遷されラバウルから内地に帰還した小園の方でも、このようなデレスケデンな統帥では戦争に勝てないと、粛軍を考えていた。しかし既に理解者の山本五十六は無く、尊敬する小林省三郎中将もいない。そこで同郷の先輩である有馬正文少将に、自分を航空本部に入れてくれるように頼んだ。有馬も色々奔走したが、航本側の小園アレルギーが強く、彼の航本入りは失敗に終わった。その代わりに、首都防衛に任じる三〇二空司令に補された。ラバウルで負傷し、内地で療養していた遠藤も、腹に弾丸を入れたまま、厚木に馳せ参じた。赤松貞明もやって来た。赤松は雷電でP-51を撃墜したり、単機零戦で75機のP-51に殴りこみをかけて、1機を撃墜するなど様々な逸話を持つ剛勇であった。

ご多分にもれず?小園は古賀清志、中村義雄といった元革新将校と繋がりがあった。古賀たちのラインから大岸頼好、菅波三郎といった陸軍の元将校らも小園の元に顔を出していた。また戦備課長の佐藤裕雄大佐なども訪ねて来ていたらしい。ポツダム宣言の受諾を小園に知らせてきたのも、大岸頼好と明石寛二少佐であった。それを聞いた小園は早速横鎮司令長官戸塚道太郎中将のところに押しかけ徹底抗戦を説いたが、全く相手にされない。昨日までお前はおれの右腕だなど言っていたのに、その手のひらを返した態度に激怒した小園は、「今後、独自で行動します」と言い放ち、さっさと司令長官室を出た。第三航空艦隊司令長官寺岡謹平中将も、厚木までやってきて説得に当たったが、小園の意思を挫くことはできなかった。このとき小園が「この詔勅は陛下のお悩みの詔勅である」といったのを、寺岡が誤って、小園は陛下は御脳が悪いと言っていると報告したため、報告を受けた米内海相は激怒したという。頑強な小園に対し、戸塚は兵力の使用を主張したが、これは寺岡の反対にあった。

8月18日、小園はマラリヤを発症して倒れる。乗り込んできた寺岡中将らの協議によって21日、無理やり麻酔注射を打たれ軍病院に運び去られた。このとき小園はマラリヤ熱から発狂していたとも、いや発狂説は少しでも彼の罪を軽くするためのカムフラージュだとも言われている。司令が倒れ、副長、飛行長も抗戦意思を捨てた。しかし岩戸中尉以下のガンルーム士官たちは、初志を曲げようとはしなかった。副長らの必死の制止を振り切り、21機の零戦、6機の彗星、銀河、九九艦爆、彩雲、零式練習機各1機が厚木を飛び立った。彼らは陸軍の児玉基地、狭山基地に着陸したが、改田中尉の機は東京湾に突っ込んで自爆した。彼らの脱出を止められなかった山田飛行長は、妻とともに毒を呷って死んだ。山田は小園からの信頼も厚く、その後継者と目されていた人物であった。夫妻の飲んだ毒薬は、戸塚中将から、小園を殺すようにと渡されたものであった。

陸軍航空隊の方も、児玉基地の宇木少佐などは好意的に岩戸中尉らを迎えてくれたが、大勢は決していた。帰順を決めた岩戸中尉は、説得に来た三航艦の高橋参謀長に対し、自分の命と引き換えに60名の同志の恩赦を求めた。高橋大佐は、簡単な取調べがあるだけだと請合ったが、結局全員が東京警備隊と巣鴨刑務所に軟禁された。伊藤中尉ら狭山組は大津刑務所へ移送されたが、ここには小園司令も収監されていた。今月1日に逝去され、27日に偲ぶ会が催される元武蔵野市長の後藤喜八郎氏は、狭山組の一人で、自爆した改田中尉の親友であった。岩戸中尉は8年、他の16名は皆5年の禁固刑、狭山の伊藤中尉以下8名は皆4年、小園司令は無期禁固の判決であった。こうして厚木空の叛乱は収束したが、彼らの戦いはこれで終わりではなかった。

  



『北千島占守島五十年』池田誠編
占守島では1945年8月18日から20日にかけて我が軍とソ連軍の間に激しい戦闘があった。ソ連側の調査によれば、日本軍全体の死傷者は1018名、ソ連軍全体の死傷者は1567名であるという。編者は戦車第11聯隊長池田末男大佐の遺児。戦車11聯隊でも聯隊長以下96名が戦死した。この本は1995年に行われた占守島への慰霊の旅をまとめたもの。
ところで占守島といえば、去年ドキュメンタリー番組が放送され、当ブログでも紹介した。しかし池田氏の文章を読むと、氏ら遺族の一部の人々は、あの番組に出ていた武蔵氏ら戦友会の人々に対し、相当な不信感を抱いているようだ。氏も書いておられるとおり、遺族と(生き残った)戦友の関係というのは元よりセンシティブだ。しかしこの場合はもうちょっと色々あるようだ。ただしこの文章が書かれてから10年がたち、現在の彼等の関係がどうなっているかは窺い知ることが出来ない。池田氏が、本当に占守島にいたのかとまで疑っている武蔵氏も、相変わらず慰霊そのものは熱心に行っているようだし、他人があまり詮索することでもあるまいとは思う。ただ一つだけ。池田氏は、武蔵氏の慰霊文を読むときの格好や仕草を、オウム真理教とまで書いている。本を見る限り、武蔵氏の格好はこのときも去年も一緒だと思う。私もテレビを見て、一種独特なものを感じたが、オウムは言いすぎではないかと。いずれにせよ、北で起こった数々の悲劇が、南の悲劇より軽んじられて良い筈はない。