九州二題

終戦秘録 九州8月15日』上野文雄 白川書院
『逃亡 「油山事件」戦犯告白録』小林弘忠 毎日新聞社

これも古本まつりで買った。『九州8月15日』は、菊水作戦から終戦後の復員あたりまでの九州を舞台にしたドキュメンタリー。著者は西日本新聞の記者。
九州では昭和20年、常軌を逸した事件が次々起こった。まずは衆議院議員吉田敬太郎が不敬罪などで逮捕された。新聞記者を相手に軍批判をやったときに、「皇族を担ぎ出そうという動きがあるが、高松宮様を除いてはつまらん方ばかりですな」とやったのがまずかったようだ。裁判は5分で終わり、懲役3年が宣告された。しかしこれはまだ序の口であった。

次に起こったのが九大の生体解剖事件、通称相川事件である。言いだしっぺは某軍医と方面軍航空参謀の佐藤吉直大佐。某軍医が九大のI第一外科部長のところに話を持ち込み、5月12日、Iの執刀で生体解剖が行われた。某が術後に肝臓を持ち出したため、戦後この事件は人肉食の嫌疑までかけられたが、結局その点は無罪となっている。持ち出した某は、空襲のときに負った怪我が原因で終戦前に病死した。

第三の事件が6月20日の捕虜殺害事件である。前日の19日に福岡は爆撃を受けた。その報復として8名の米軍捕虜が斬殺された。法務部長の伊藤章信少将、佐藤参謀、和光勇精法務大尉などが立会い、数名の尉官が腕を振るった。前日に母を空襲で殺されたT主計大尉は志願して3名を斬った。

第四の事件は8月10日の油山での捕虜殺害事件、通称油山事件である。このときも方面軍参謀副長友森清晴大佐、射手園少佐らの見守る中で8名が殺害された。今回も斬殺ではあったが、途中で空手による処刑が試された。勿論彼等は竜造寺徹心でも愚地独歩でもないので、空手では絶命させることが出来ず、結局斬っている。が、このことがより一層、事件に陰惨なイメージを与えることとなった。

次の、そして最後の捕虜殺害は8月15日である。終戦玉音放送を受けて、方面軍司令部では残った捕虜の扱いが議論になった。友森大佐などは、自分はあまりこれまでの事件に関係が無いという思いがあったのか「どうせ隠したって判るよ」という立場であったが、参謀副長福島久作少将、佐藤大佐、情報参謀薬丸勝哉中佐、伊藤少将、和光大尉らは隠蔽を主張。結局残った14,5名の捕虜を油山に連れ出し、殺害した。このときは弓が実験的に使われたが、中らなかったらしい。また、佐藤大佐は処刑現場に報道部勤務の女を連れてきていた。

終戦を受けた方面軍司令部では、着任日の浅い安倍邦夫作戦参謀が徹底抗戦を叫んでいた。また報道部長の町田敬二大佐も、軍司令官横山勇を総理に抱く九州政府構想を持って動いていた。町田は報道部長であるため、彼の周りには火野葦平らもくっついていたが、結局横山中将が乗ってこなかったため、何事も起こらなかった。町田は後に自伝を書いているので、この話はそちらに譲る。

それでも収まらない若い召集の将校たちがいた。彼等が頼みにしたのが、菊池部隊(第212師団)の桜井徳太郎であった。桜井は数少ない少将での師団長で、支那ビルマで鳴らした猛将であった。しかし彼は終戦直後に東京に飛び、自らの目で詔勅を確認して、既に継戦意欲を失っていた。周りの人々の必死の説得で若い人々も解散したが、リーダー格の二人だけは、そっと仲間から離れ、油山で自決した。このときは立たなかった桜井は、16年後に奇妙なクーデーターに関与することとなる。

戦後、上記の捕虜殺害事件が明るみに出て、軍司令官以下が逮捕された。横山中将は、当初は自らの命令で軍律会議抜きでの処刑をやらせたと述べていたが、再審では、「自分は命令していない。伊藤と佐藤が決めたと思う」と証言を翻した。大岡昇平は、岡田資の伝記『ながい旅』の中で、この横山の態度を引き合いに出している。横山も支那の第11軍司令官時代は非常に評判の良い将軍だったのだが。一審で9名の絞首刑判決が出たが、幸いなことに後にいずれも減刑された。しかし横山中将は獄中で病死した。他に生体解剖のI医師が自決している。ちなみに和光大尉は上海でのドゥーリットル隊のパイロット処刑も主導している。この事件の裁判では、軍司令官であった沢田茂が、責任は総て自分にあるという断固たる態度をとった。裁判中、通訳をしていた朝鮮人が沢田中将の傍に寄ってきて、「そのような証言は、東洋人には理解できるが、白人に対しては有害無益であるから取り消しなさい」と忠告したが、沢田は「その必要はない」といって聞かなかった。しかし判決は全体的に軽く、1人の刑死者も出さなかった。
http://www10.ocn.ne.jp/~kuushuu/bcaircrew.html


『逃亡』は、油山事件で命令により捕虜を斬ったある見習士官の逃亡の記録。東京帝大を卒業した病院長の息子として生まれたSは、鹿児島高商を卒業した後入隊し、久留米の予備士官学校中野学校を経て、西部軍司令部附となる。8月10日、命令によって、油山で捕虜1名を殺害。戦後、家族に別れを告げ、逃亡。多治見市の大きな陶器製造所の門を叩く。焼き物経験の無い男の採用に、社長は当初乗り気では無かったが、丁度雑用係が居なかったことから、雑役夫として雇われる。松田という偽名を使い、真面目にこつこつ働く男は、段々やり手の社長からも、雑事一切を取り仕切る矍鑠とした社長の母親からも、信頼されるようになる。そして遂には雑役を卒業し、焼き物職人となる。勿論最初は怒られ通しであったが、持ち前のもの覚えのよさで、ぐんぐん腕を上げ、仲間の職人からも一目置かれる存在となる。そして事務主任に抜擢され、労使関係の調整も任される。

しかしその間も、残された家族には、GHQを後ろ盾にした官憲の、人権などどこ吹く風の取り調べが加えられていた。警察の執拗な取調べに、33歳の姉は体調を崩し、遂には病死してしまう。それでも取り調べの手は緩まない。盗聴器まで使った非人道的な捜査に、しかし残された母や妹が屈することは無かった。そもそも彼女たちは本当にSの居場所など知らなかった。しかし東京にいた元上官のYだけは、Sから連絡を受けて居場所を知っていた。家族に加えられる警察の余りに過酷な取調べに、思い余ったYは、遂に聞き込みに来た刑事に独断でSの居場所を告げる。

昭和24年7月19日、事務室にいたSの元に3人の男がやってきた。一人は元上官のYであった。いつの間にか社長もやってきて、「S君ちょっと」と彼を本名で呼ぶ。残りの二人は警視庁の刑事であった。「ごめんなさい」深く頭を垂れるSに対しYが、「ご家族のご苦労を見かねてね。君に何も言わずにこうした措置をとってしまった。お詫びする」。社長が言葉を継ぐ。「S君、私もうすうす君が戦犯というのには気付いていた。気持ちをしっかり持ちなさい。大丈夫だからね」。社長一家、従業員一同に暖かく見送られ、多治見を後にしたSは巣鴨に収監される。そして横浜に於ける彼の裁判は、長らく続いた連合軍による戦犯裁判の棹尾を飾ることとなる。

200ページちょっとの薄い本ではあるが、あっという間に読んでしまった。著者の姿勢に好感が持てる。2006年の3月に出版された本なので、まだまだ簡単に手に入るし、図書館でも開架に置かれているはずだ。
敢えて言おう、必読書であると!



しかし、警察の職務熱心はどう捉えれば良いのだろう。はっきり言って私は、吐き気がするが。