八甲田山から還ってきた男

高木勉著、サブタイトルは雪中行軍隊長・福島大尉の生涯。
先日の百万遍の古本まつりで購入した一冊なのだが、思った以上に面白かったので、軽く紹介しておく。

八甲田山雪中行軍といえば有名なのは『八甲田山死の彷徨』である。これは高倉健北大路欣也で映画化もされた。しかしこれは虚実を取り混ぜた小説である。著者はこのベストセラーの虚伝を正すという姿勢である。例えば著者は、第5聯隊の雪中行軍隊を一貫して山口隊と呼ぶ。新田本を読んだ方なら分かると思うが、彼の本では5聯隊側の指揮官は神成(作中では神田)大尉であり、山口(同山田)少佐はくっついて来たおまけ且つ指揮系統を乱す存在のように描かれている。しかし著者は5聯隊側の指揮官は大隊長山口少佐であり、神成大尉はその部下の一中隊長に過ぎないとしている。常識的にはこちらの方が筋は通っている。また新田本では神成、福島(同徳島)両大尉は出発前に会っているが、実際はお互いに面識が無く、又両聯隊ともお互い相手の聯隊が雪中行軍を行うことすら知らなかったとしている。というのも31聯隊の雪中行軍は福島大尉が以前から綿密に計画を立てていた大行軍であるが、5聯隊側の行軍は、2,3日前に決定された、1泊2日の小行軍であったからだ、という。最も大きな点としては、福島隊に随行していた東奥日報の東海記者が、山頂付近で5聯隊の遭難者を発見し、遺体は無理なので小銃だけ持ち帰ったという話。これは東海記者が実際に記事にしたもので、新田本でも大きく取り上げられているが、著者はこの話は丸々記者の作文であり、福島隊は山口隊の遭難者は一切見ていないと断じている。


福島泰蔵群馬県の商家に生まれた。教導団を経ての陸士入学であったため、同級生と較べれた年をとっていた。陸士は2期で同期には鈴木孝雄らがいた。任官した福島は高崎の町で同僚の永田十寸穂少尉と同じ下宿で暮らし始めた。永田は名前を”マスオ”と読む。彼にはやはり一風変わった名前の弟がおり、その弟も後に陸軍軍人となる。ちなみに父親も志解理(シゲリ)という変わった名前で、これは医家の家柄に由来するのかもしれない。福島は非常に勉強熱心な読書家であった。また普通の歩兵将校にはない地図作成という特技もあった。そのため中尉のとき、陸地測量部に転属となった。しかし僅か1年で、新設された歩兵第31聯隊の中隊長に赴任する。これは師団長の立見尚文が、陸士出の気鋭の将校を欲しがったことに因る。弘前でも彼は持ち前の勉強熱心さで、岩木山雪中踏破演習などの行軍演習を次々成功させ、師団長の知遇を得ている。八甲田山もこれらの演習の延長線上にあり、総ては対露戦の為であった。八甲田山雪中行軍は特に、福島大尉が聯隊長、旅団長を飛び越え、師団長から直接指導を受けていたと著者はしている。

さて見事に八甲田山を制覇した福島隊であったが、第5聯隊の悲劇のおかげで、その功績はあまり世間に広まることは無かった。福島自身はまもなく旅団副官に転任となった。ちなみにその前に、参謀本部が戦史室に彼を迎えようとしたことがあったが、それは立見が拒否したらしい。優秀な大尉を離したくなかったのだろう。旅団副官となった彼は妻を迎えている。

新たな上司で長州出身の友安治延少将は、漢籍を良くする文人タイプの将軍で、妻が薩摩人という点は乃木と同じであるが、実際彼の妻は乃木の妻静子と遠縁であった。友安の妻は広島で静養中であり、彼は妾宅に寝泊りすることが多かった。また友安自身体が弱く、半年も妻のところで休暇をとったことがあった。妾を伴って官費で秋田まで旅行をしたこともあった。ちなみに山口隊が遭難したとき彼は、浅虫温泉に居た。こういう態度が、仕事熱心な福島大尉には我慢ならなかった。副官の官舎は旅団長の向かいにあったが、旅団長が在宅時は必ず、旅団長官舎に向かって大声で号令をかけたり、詩吟をうなったりするようになった。酔っ払ってわけの分からないことを喚き散らすこともあり、福島の妻は気が気でなかった。ある日などは、釣りを楽しんでいる旅団長のところに馬で乗りつけ、大きな石を抱え上げて、旅団長が釣り糸を垂れている付近に投げ込み、一言の挨拶も無しに立ち去った。これには友安旅団長も肝をつぶし、顔面を蒼白にして口をわななかせていたという。遂に二人の抗争は陸軍省の裁くところとなり、友安少将は後備役に、福島大尉は山形の聯隊の中隊長に転任となった。いくら立見中将が福島贔屓とはいえ、少将と大尉が喧嘩をして少将が後備になるのだから、友安少将のだらしなさはよっぽどのものであったようだ。ちなみに彼は日露戦争では、後備第1旅団長として旅順攻囲に参加している。谷寿夫の機密日露戦史に次の記述がある。
”旅順攻撃における某少将の二〇三高地攻撃を辞退せる件”
この某少将が友安である。彼はあまりの惨状にビビッてしまい、自ら乃木に辞任を申し入れて旅団長を辞めている。

32聯隊でも福島は短い期間に多くの提言や論文を残している。明治37年9月、福島は妻と生まれたばかりの娘を残して出征した。全軍の予備的扱いであった第8師団は遂に黒溝台に投入され、福島は明治38年1月28日、そこで戦死する。黒溝台の戦いは、明石宇都宮ら在欧武官がロシアの冬季作戦を探知して警告を送っていたにも関わらず、また騎兵からも情報が上がっていたにも関わらず、児玉源太郎以下満洲軍参謀がそれを全く無視したため、日本軍の大苦戦となった。しかし実は福島も、戦前に書いた「露国ニ対スル冬季作戦上ノ一慮」という論文の中で、ロシア軍少将の談話を引用しながら、ロシア軍が冬季に作戦行動に出る可能性を訴えているのだ。福島は満洲に上陸した10月に、総司令部に於いて児玉に謁見している。彼を冬季作戦の権威と認めてのものだろうが、そのとき上記のことについて話し合われたかは不明。戦後、秋山好古が総軍参謀であった松川敏胤にこのときの不手際詰問した。二人の後ろで聞いていた永沼秀文によると、松川は諧謔的な口調で
「なあにあの時はお客さんが左翼方面から来るだろうと思っていたのだ」
と答えた。すると秋山は辞色ともに激しく
「お客を待つなら待つで歓待の手段を取っておかねばならないではないか。何にも接待の準備がないところへお客さんに見舞われたから、あの醜状を暴露したのではないか。敵の強大な集団が進んでくる模様はいく回となくわが輩の手許から報告してをり、警告してをつたのに、総司令部でああまた例の騎兵の報告かと軽視して信用しなかったから、遂にあんな不始末になったのだよ」
と厳然と言い放ち、これには松川も一言もなかったという。