宇都宮太郎日記1911

911(明治四四)年
一月八日 日 晴
 午后四時頃より、約により少将田中義一来訪。将来の国事に就き意見を交換し、且つ之れが為め偏狭なる郷関等を眼中に置かず、有為の人士と協力するの必要なりと云ふことに双方の意見一致し、先ず手始として海軍の財部少将(次官)と打解談を為す為め、余其機会を作ることに談じ合ふて対酌数時、九時頃辞し去る。
<注釈>
郷党閥を越えて協力しようと田中義一と約定を交わした宇都宮。実際、田中は長州派の寵児であったが、長閥意識は割合薄かった。手始めに、薩摩出身で山本権兵衛の婿、財部と田中の会談を宇都宮がセッティングすることに。



一月二十九日 日 晴
午后五時、我部の部員歩兵大尉香椎浩平の結婚披露の宴に列す(五円の勝男武士を送る)(第四課長武藤信義、昨日歩兵大佐に昇進に付き、亦た同様五円の鰹節を贈る)。香椎は福岡人にして誠実愛すべきの士なり。
<注釈>
香椎は磊落な性格の好人物であった。後に二・二六事件の当事者の一人。



二月六日 月 晴
 夕食後、海軍次官少将財部を訪ひ、不日余が宅に田中義一と三人会合打解談を試ことを申入れしに、彼れも快諾す。
<注釈>
先頃田中と交わした約束を財部にも伝えて、快諾を得る。薩摩系に親しい人の多い宇都宮は、この薩摩の海軍軍人ともある程度親交があった模様。



二月七日 火 晴
 第一部長松石安治、清国旅行の処、帰途罹病(昏睡状態に陥りたり)、去る五日帰京の由に付き、其家に往訪。
<注釈>
満洲四平で暖房器具の不具合からガス中毒に。以後、宇都宮は松石の容態に一喜一憂することとなる。



二月十八日 土 晴
 出勤掛、松石安治を赤十字病院に見舞ふ。尚ほ昏睡の状態に在り。
 此夜海軍次官海軍少将財部彪、歩兵第二旅団長陸軍少将田中義一を招き会食、談話を交換す。
<注釈>
以前の約束どおり、田中宇都宮財部の三者会談成る。
松石以前昏睡状態。宇都宮は数日おきにこれを見舞う。



二月二十七日 月 晴
 病気在宅(実は在宅、師団長会議に対する取調を為す)。
<注釈>
さぼって宿題?



三月二十一日 火 晴
 出勤掛、松石安治を見舞ふ。依然として昏睡状態に在り。真に憂ふべきなり。

四月十九日 水 晴
 井口中将来衙、松石病気を心配して小熊なる気遣治療を勧む。余も之に同意す。百方手段尽きたればなり。

五月三日 水 晴
 出勤掛、松石を見舞ふ。素人目には幾分快方の様なれども、平井院長は保証せず。
<注釈>
何時までたっても意識を快復しない松石に、陸大校長の井口省吾も心配し、ついに非科学的な治療に頼る心境に。井口もまた宇都宮や松石と並ぶ反長州の軍人。



五月十七日 水 曇後微雨
御思召を奉じて英人ハンナ・リデル嬢の苦心経営に係る癩病人収容回春病院を見舞ふ。牧軍医正、今井獣医正同行す。三宅院長の案内にて巡視す。収容患者五十一人、悲惨の極、如何にも気の毒の至なり。中には十四歳の小童患者、其母と共に収容せられ、母は重体なるあり、妙齢の処女もあれば頽齢の老人もあり、多くは親戚故旧に棄てられ孤独無告の中に死期を待ちつつあるの状、不憫とも気の毒とも言はん様無し。仁政の端は此辺より始めざる可らず、徒に法治等と称へて冷やかなる施政の結果は大逆無道の罪人を出す、輔弼者の責任や大なり。真に王道を行はば天下何物か感孚せざらん、噫。懐中にありたる金子の全部二十五円、殿下の御下賜金としては小額に過るとは考へしも、一人一人に菓子にても買ひ与へ呉れられよと申し、殿下よりの御菓子料として残し置きたり。
<注釈>
特命検閲の途中、我が国におけるハンセン病治療の魁、ハンナ・リデルの回春病院を訪ね、その悲惨さに強く心を打たれる。思わず手持ちの金銭を寄付する。



六月二十四日 土 晴
 本日福島中将宛松石の処分の軽挙なる可らざること、万止を得ざる場合にも其後任は尤も慎重に考へ余にも腹案あることを申送る。
<注釈>
快復しない松石の第一部長更迭が話題に上るようになった。検閲で東京を離れたままの宇都宮は、手紙で、松石の処分は慎重にするように福島安正次長に頼んでいる。



七月十五日 土 晴
 退出掛松石の病気を其自宅に見舞ふ。彼先ず発言、余が面を記憶するものの如く種々の応答を為せしに、大抵は間違無く体力も余程回復、此分にては快復疑無きものの如く慶賀の至なり。
<注釈>
久々に松石を見舞う。脳をやられた松石であるが、宇都宮の顔は判別できたらしい。僅かな快復を喜ぶ宇都宮。



八月八日 火 晴
 上原氏へ政局に関する長文の書状を出す。
 少将田中義一と役所に会見、政局に関し意見を交換し、陸軍大臣の後任は両人の意見上原に一致す。
<注釈>
桂内閣が退陣となり、寺内陸相も桂と進退を共にすることとなった。後任陸相は上原勇作が最適ということで、田中義一と意見が一致した。



八月二十五日 金 晴
 田中義一電話して曰く、二、三日前までは大臣後任は上原と確信せしに、昨今少しく変態を生ぜり、二、三日前までは石本の行先を研究せしに、今は中止せられ、ドーモ石本にはあらざるか云々。余は他用に託して陸軍省人事局長山田を見て之を叩きしに、彼曰く、寺内大将昨日小田原山県元帥を訪問の結果、大臣後任は愈々石本次官の昇任に確定せり唯今内聞せり云々。是に因て見れば、彼等長閥者は石本推薦に一致せしこと最早疑ふべきの余地無し。此上は政友会の態度なれども、これは余り当にせざるを至当とす。即ち此度は目的を遂げざりしものと覚悟後図を画すること肝要なり。尤も表面は更に一層の冷静を装ふこと必要にして、余も再び一伴食部長として無声雌伏の旧態に復べく、徐に後図を画せんとす、誠に是非も無き次第なり。併し石本にせよ誰にせよ、藩閥者流の天下は確に一転機の運に向へり。奮ふべし奮ふべし大いに奮ふべし。以上の要旨を上原中将を始め井戸川、町田、小山、樺山等の同志に通ず。
<注釈>
後任陸相は上原という意見で一致していたはずの田中から、どうも後任は石本新六になりそうであるとの電話を受ける。人事局長で長州の山田隆一にそれとなく尋ねたところ、山縣有朋寺内正毅との会談で、長らく寺内の次官を務めた石本の昇任が決まったとのこと。上原を推していた田中も、敢えてこれに逆らうような動きは無し。宇都宮も時利あらず、”一伴食部長”として雌伏すると決め、同志の井戸川辰三、町田経宇らにもそのように伝えた。石本は上原と同じ工兵科であり、同じようにフランスに派遣された人物であったが、精励ぶりが寺内に気に入られ、長く次官を務めた。しかしそのハードワークが祟ったのか、現職のまま病死する。息には二・二六事件で判士を務めた石本寅三らがいる。



九月二十二日 金 雨
 去二月以来病気にて転地中なりし福島中将昨夕帰宅の由に付き、出勤掛往訪せしに、元気も余程快復しあり、公務上の報告、人事(松石後任には由比を第一、山梨第二として薦む。其外柴、星野等も参考に供せしに、由比には尤も同感を表せらる。大沢少将の往先心配を頼みしに、輜重兵監に為すことには出来れば同意の趣にて、余先ず浅田教育総監の意を質すことになり、本日午後往訪之を尋ねしに、浅田氏は現兵監の往先無き等を理由として拒否の意を洩せり)。
<注釈>
松石の更迭は避けられない状況となり、後任について福島と意見交換。宇都宮の第一候補は高知の由比光衛、第二候補は田中と同期で田村怡与造の婿山梨半造、更に宇都宮の同期、柴勝三郎、新潟出身の星野金吾を挙げたが、福島も由比が最適と、意見が一致した。
また第三部長大沢界雄の転任先として、輜重兵監はどうかと、教育総監浅田信興に打診したが、浅田は婉曲にこれを拒否した。結局大沢は由良要塞司令官という閑職に転任し、間もなく予備に入れられる。



十月八日 日 晴
 在宅。歩少佐松井石根来訪(其縁談に付き)、余が懐抱の一部を告げ、余が為めに尽さんことを求めしに、彼も承諾之を約す。余は腹心として彼を使用せんと欲するなり。
<注釈>
以前世話した縁談こそうまくいかなかったが、その後も宇都宮は松井の面倒を見ている。遂には同志となるよう求め、松井もこれを承諾している。



十月十日 火 曇
 過般来次長と内議中なりし第一部長後任に由比を、否らざれば山梨或は柴を、大学校長に松川を、否らざれば星野、柴の内を推すことを重ねて内相談し、次長の決心は決したりと認む。併し前途幾多の難関あり、安心は素より未だし。彼等は両方共に大場、大井を推し、大島より之を唱導せしめつつあり。斯の如くなれば、既に長州の寵児あり、準長の大島あり、之に一長を加へば参謀本部の部長は五人中の三人は長州にて、本部は純然たる長州の物たらんとす。大学校長に長州人の用ゆ可らざるは試験問題の漏洩、人選の詮考等の私曲甚しく、其前例あるを以て、初めては大学校丈なりとも彼等の毒手より神聖に為し置き度微意なり。
<注釈>
長州派は第一部長、陸大校長の職に大庭二郎、大井成元を据えようと、参本総務部長で長く山縣の副官であった大島健一を使って、運動していた。宇都宮は松石の後任には以前話した通り由比を、井口の後任には松川敏胤を据えるように、改めて福島の決心を求めている。陸大の校長を長州派にすればえこ贔屓をする、すでにその前例があると、宇都宮は書いている。恐らくその前例とは寺内正毅と、その跡を継いだ藤井茂太だろう。藤井は兵庫だが、そういう噂がある。



十月十八日 水 晴
 過般来私に苦心せし松石第一部長の後任に、吾人側の由比光衛確定、一安心す。長系の意を迎ふるに急なる大島等は、長の大庭、大井を推したるなり。事此に至るの已むを得ざりし、松石の為めには気の毒なり。
 此夜時局に付き警保局長古賀廉造と其案内にて木挽町緑屋に会飲。亦た「私見」を内示し時局を談じ、同時に極めて隠密に叛徒を助くるに付き、殊に職掌武器輸出等に便宜を与へんことを内談せしに彼も快諾す。
<注釈>
・結局第一部長には宇都宮の第一候補であった由比が就任することとなった。しかし陸大の校長には大井がなる。この翌年のことである。
・警保局長古賀廉造と会談し、支那革命軍への武器の供与を黙認するよう依頼して、承諾を受けている。



十月二十五日 水 晴
 松石少将病捗々しからず。時局急なる為め、少将由比光衛第一部長に任ぜられ松石は待命と為る、誠に気の毒の次第なり。由比は近衛歩兵第四聯隊以来の親友にして、此度は余も推薦者の一人なり。
<注釈>
松石、遂に待命となる。由比は松石ほどの才気の閃きは無いが、戦場に於いては飽くまで豪胆な人物であった。



十一月二十九日 水 晴
 陸軍大学校卒業式に付き陛下御臨幸参列す。第一は旧連隊の歩中尉梅津美治郎にて、六人の優等者中第五も同じく歩中尉篠塚義男なりしは心中独り嬉しく覚へたり。
<注釈>
旧部下から二人が陸大恩賜賞を貰った。目を掛けていた篠塚は陸軍に入ってから初めて首席を逃したが、この期は陸大有数の激戦の期であった。首席には最後の参謀総長梅津美治郎、次席は永田鉄山、それに加賀の当主前田利為、藤岡万蔵、篠塚と続き、6位は小畑敏四郎であった。



以上で、『日本陸軍とアジア政策 陸軍大将宇都宮太郎日記 1』のレビューは終わる。読んでくださった皆さん、ご苦労様でした。

ところで最後に、宇都宮は陸軍三太郎と称された中の一人であった。ところがこの三太郎、もう一人は仙波太郎で確定なのだが、最後の一人が本によって違う。明治44年発刊の鵜崎鷺城著『薩の海軍長の陸軍』によれば宇都宮と仙波、林太郎を合わせて陸軍の三太郎としている。しかし戦後出た本ではこれが桂太郎になっている。字面が似てるのでどちらかが誤植の可能性が高いが、これがまた微妙すぎる対比で、どっちが正か判別できない。確かに桂は、仙波、宇都宮と並べるには大物過ぎる。一方の林は、士官生徒の6期生であり、軍事課長などの要職も経験しており、こちらが正しいような気もするが、彼は旅団長を最後に中将進級と同時に待命となっている。仙波、宇都宮と並べて三太郎と呼ぶにはこちらはやや小物のような気もする。まあ、宇都宮が陸軍を代表する逸材であることには変わりは無いが。


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