慶応野球部とふんどし王子

明治40年11月31日に行われた、ハワイより来日したセントルイス野球団と慶応義塾大学野球部の試合は、日本で始めての有料試合となった。チケットは大いに売れ、皇族から庶民まで1万人の観衆が球場に詰め掛けた。そんな中毎試合、ネット裏より観戦している目付きの悪い鋭い一人の海軍軍人がいた。その人物こそ、先年の日本海海戦で「舷々相摩す」の名文句で日本国民の血を湧かせた秋山真之将軍その人であった。将軍は試合に先立ち、慶応野球部に対し、「褌論」という文章を与えて之を激励している。曰く「とにかく緊褌一番をお試し被成候得ば必ず多少の効能は可有之。五十間飛ぶ球が六十間飛び五秒掛かる所を四秒に走り三度の過失が二度で済む位の事は確かに有之候」
将軍の激励を受けた慶応野球部は見事にセントルイス野球団から勝利を挙げた。将軍の論文(?)は大正14年に日本橋白木屋呉服店で行われた時事新報主催の早慶野球戦復活記念展覧会に出品された。



さて彼が早稲田でなく慶応を応援したのは慶応好きの兄好古の影響でせうか?まあそれはどうだか分かりませんが、野球好きの方は間違いなく”のぼさん”の影響です。上の褌論の中でも、大学予備門時代は随分野球にはまっていたことを告白しています。この真之の褌論に共鳴した山下亀三郎は、褌を大量に持って渡欧しましたが、さっぱり売れなかったそうです。

ちなみに岡村寧次大将もまた野球好きでしたが、こちらは早稲田中学に通っていた関係から早稲田びいきでした。また岡村のポン友の河本大作もかなりの野球ファンであったらしく、満鉄クラブの後援会長など務めています。このクラブには名投手浜崎真二がいました。
今発売中の野球小僧によれば、よっさん(吉田義男)は阪急に入団寸前だったそうです。ところが時の阪急二軍監督の浜崎が、自分のことを棚に上げ、「こんな小さいのはだめだ」と言ったことから、阪神が獲得することができたそうです(ちなみにWikiによれば浜崎は身長150cmちょい!)。逆に350勝の米田哲也は阪急が阪神から奪いました。ついでに言うと、317勝の草じゃなくて鈴木啓示は、ドラフトで何故か阪神がスルーしたため、近鉄に行きました。もしこの二人を阪神が取っていれば、小山、村山、米田、鈴木、江夏という凄まじい投手陣が形成されて、プロ野球の歴史も変わったでしょうね。

1月18日追記
イムリーにもNHKの「坂の上の雲」の出演者が決まったそうだ。
http://www3.nhk.or.jp/news/2007/01/18/d20070118000144.html
全13回で3年って一回何時間?2時間やってくれるの?

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