2・26事件特集(18)老壮会の活動

これまで

引き続き満川『三国干渉以後』によって、老壮会の活動を見ていく。
第一回の会合は大正7年10月9日午後6時清風亭で開かれた。このときはまだ名前も何も決まっていなかった。来会者は海軍中将上泉徳彌、陸軍中将佐藤鋼次郎、大日本主幹川島清治郎、東邦協会幹事川久保健、参謀本部編修長瀬鳳輔、善隣書院長で上泉の義兄宮島大八、前順天時報社長亀井陸良、旧自由党の大井憲太郎、徳富蘆花の義兄原田良八、支那通の中西正樹等の先輩格に、島中雄三、大宮欽治、日高瓊々彦、小室敬二郎の中堅組並びに三五会同人よりは大川周明、宮川一貫、岡悌治、何盛三、山田丑太郎、平賀磯次郎ら総員27名。まず世話人の満川が立って挨拶した。曰く「一切の年齢、職業、階級を縦断する『縦の交際』」で「根本に憂国的精神の存在する以上は、そが仮令所謂危険思想なるも、秩序紊乱なるも、何を発言しても差し支へな」く、「維新志士の精神に立ち返りてこの会を進めて行きたきものなり、云々」と。議事ではまず会名を決めようということになり、満川が夜光会、佐藤鋼次郎が老壮会、大井憲太郎が大正義会を提唱した。満川の夜光会には、今後日本はますます暗黒となるからその時の光とならんという意が込められていた。結局決定は次回に持ち越しとなり、更に小むつかしい会則などは一切作らぬことに決定した。次に小室より会は何か根本に決定するところが無ければならないとの発言があり、佐藤、川島、上泉、何、日高らの応酬があり、岡は熱烈なる普通選挙論を唱えた。大井の「この会は実行機関にせねばならぬ」という猛烈論に、島中が「決議による実行を強制せらるるやうでは、断然退会の外なし」と反駁し、満川は「会としては飽くまで研究本位でやりたし」と述べた。その後各自懇談に移り、午後11時散会した。

第二回の会合は10月22日に持たれ、夜光会では文学青年の集まりのようで優しすぎるし、大正義会は自由党の壮士のようで恐ろしすぎるというので、佐藤中将の老壮会(老人も青年もという意)に決定した。この会合の題目は「現下世界を風靡し、我皇室中心主義上、将た亦講和上至大の関係ある所謂民主的大勢を如何に取扱うべきか」であった。島中がリンカーンの言を引いて民主主義何ら憂うるに足らずと解説すると、大川がこれに駁して我が国には独特の国家観無かるべからずと論じた。

以後、大正7年内だけで第五回まで会合は持たれ、唐継尭顧問の大作理三郎やロシア通の中山逸三、インド研究家衣斐吉、松林亮、東京高師教授中島信虎、文学博士大類伸、前東京市参事山田忠正、帝大法科生の平貞蔵、泰東日報社長阿部真言支那通の小村俊三郎、長谷川光太郎、そして中野正剛等が参加した。第三回の題目は「我国政治組織改革の根本精神如何」、第四回は「独逸の敗退に伴ふ英米勢力の増大」、第五回は「普通選挙問題」であった。第五回の会合では、岡、平賀が普通選挙論を述べ、川島、何が反対論を述べた。

ベルサイユの講和会議が始まると、民間有志からも中野正剛らが渡欧した。また佐藤鋼次郎が提唱して国民外交会という会が組織され、満川も勧められるままに参加した。満川はこの会の席上で、北一輝から送られてきた対支時局観の謄写刷りを配った。これを卓見として最も共鳴したのは政友会の松田源治であった。講和会議を取材し危機感を抱いた中野は「日章旗影薄し」と叫んで急遽帰国した。

この頃満川は、旧知の福田徳三博士を訪ね、老壮会に加わってくれるよう要請したが、福田は学会以外には一切関係しないと拒絶した。しかし間もなく福田は、吉野作造と共に黎明会を創立した。会の趣旨は「強権によるドイツのミリタリズムは滅んだ、今や新しき人類文化の黎明期に入らんとするに当たり、この黎明会を興す」というものであった。満川は、老壮会を夜光会と名付けようとした自分と、福田の思想にはよほど距離があることを思い知った。会には両博士のほかに、高橋誠一郎、左右田喜一郎、新渡戸稲造、麻生久、森戸辰男らが名を連ねた。

一方、黎明会と同じく神田青年会館で集会を持つ団体で、文化学会という会があった。発起人は島中雄三、岡悌治らで、満川も勧められるままこれに入会した。会員には外に下中弥三郎安部磯雄、宮路嘉六、鷲尾正五郎、石田友治、北沢新次郎、杉森孝次郎、何盛三といった人々がいた。

年が明けた1月19日の第六回の席上には、売文社の高畠素之、北原龍雄が姿を現した。これは社会主義者の窮状に同情的な満川の依頼を受けた岡が、密かに交渉した結果であった。席上北原は「社会主義とは何ぞや」と題し、高畠は「社会主義者の観たる世界の大勢」と題して講演した。講演が終わると佐藤中将、中島教授、何盛三、小室敬二郎、川島清治郎らから、軍事問題や人口問題について質問があり、高畠、北原より一々答弁があった。散会して帰宅した満川の下には早速2名の刑事が現れ、会について根掘り葉掘り聞いた。老壮会の中には社会主義者国賊の如く見ていた人もいたが、実際に会ってみた高畠は上州男児の面目躍如たる男であり、北原は気骨稜稜たる土佐ッポであった。(---余談ではあるが、高畠は井上日召と中学の同窓である。しかし支那革命に参加していた日召はまだこの頃中国にいた。---)一方高畠の方も、頑迷固陋な国家主義者の集まりと思っていた老壮会が、以外に話せることを知り、雑誌『新社会』に「福田徳三博士を介して黎明会に入会を申し込んだところが、色彩過激の故を以て拒絶せられた。然るに老壮会では欣然之を迎えて其説を聴取した。余は吉野博士等のダラダラした民本主義などよりは、錦旗を奉じて社会主義に驀進するをも辞せざらんとする佐藤中将、宮島大八氏等の国家主義にヨリ多くの共鳴を感ずるものである」と書いた。

社会主義者まで包含した老壮会は、第九回からは婦人も迎えた。権藤成卿の妹たる権藤誠子や吉田清子、柳葉清子ら『女性』同人が来会し、婦人問題についての議論がなされた。また大杉栄の先夫人堀保子もしばしば来会した。

大正8年4月売文社は解散し、高畠は堺利彦、山川均と袂を分かった。高畠、北原、遠藤無水、尾崎士郎、茂木久平は以後、国家社会主義の旗幟を立てて活動する。大衆社である。7月の第十五回老壮会に出席した遠藤は、「我国の社会主義者は志士系と侠客系との二種類に分かれるが、何れにしてもこの切迫せる困難より国家を救うには国家社会主義に由る外はない」と語った。

こうして老壮会は大きくなり、左右に翼を広げていった。島中雄三曰く「余は最初老壮会が出来たとき、期待に反することが多かったので、老壮会は不肖の子でないかと案じていたが、二三ケ月欠席の後出席してみると実に以外にも立派に成長していた。こんな愉快なことはない」と。

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