人事異動

堀江少佐によれば、栗林中将は大分グチっぽくなっていたようだ。

「永田さんでも生きておれば、こんなことにはならなかったんだよ」

「鈴木宗作さんも同じことをいわれていましたが」

「なんだ、君は鈴木さんの部下だったのか。頭のいい人だね。教育総監部で一緒だったよ・・・永田さん、今村さん、鈴木さん、あのころは君、教育総監部はそろっていたよ。相沢とか何とかいう狂人が殺しちゃって、国宝を失っちゃったんだ。盲目の馬鹿めらが愛国だヘチマだのといって、見さかいのつかないことをやるからこのざまだ」

「ご郷里が同じなので特に永田鉄山と親しくされたわけですか」

「うーん。偉い人だったよ。世界を見ていたよ。何しろ宇垣さんの一番弟子だからね。俺も東京師団で火災なんかが起きなければこんな所へきやしなかったんだ」

永田鉄山は栗林と同じ長野県出身で栗林と同じ時期に教育総監部にいた。今村鈴木は共に陸大首席卒業の英才だが、二人とも教育総監部には勤務していないはずだが・・・。今村はラバウルの第8方面軍司令官として終戦を迎え、鈴木はレイテの第35軍司令官として戦死した。堀江少佐は、栗林中将と幕僚たちとの不仲の原因に、現状に対する認識の差異を挙げている。

結局堀参謀長と大須賀旅団長は更迭となった。参謀長後任には第93師団参謀長であった高石正大佐(30期)が、旅団長の後任には、栗林と同期の、仙台幼年学校校長千田貞季少将がそれぞれ任命された。いずれも歩兵戦術の大家であったらしいが、栗林の好きな陸大は出ていない(高石大佐は陸大専科卒)。果たして栗林中将との関係はどうであったのか?本当のところは分からない。更に中根兼次中佐が高級参謀に補され、司令部を強化した。中根中佐は豊橋中学出身の陸士35期。歩兵学校で恩賜賞を貰い、陸大専科を卒業した。剣道五段、歩兵の神様といわれる猛者であった。一方で非常な親孝行でも知られ、歌心もあった。最期の訣別電はこの中根中佐の筆によるという説もある。硫黄島への赴任時、次女はまだ9ヶ月に過ぎなかった。

栗林中将はノイローゼになり、実際の指揮は高石参謀長、千田旅団長、市丸少将らがとったという話がある。ノイローゼ云々はともかくとして、栗林は騎兵科であり、千田以下が歩兵戦術の大家であるとするならば、実際の戦闘指導が彼等によって行われていたとしても、不思議な話ではないと思う。また降伏しようとする栗林を中根参謀が殺害したという話もあり、これは実際に見たとする人物が居るが、なんとも言えない。

一方更迭された二人は内地に帰ることなく、司令部附として島に残り、戦死した。大須賀少将は病気をしており、野戦病院内で死を迎えたとの説もある。二人が島に残されたことについて、栗林中将の差し金であるようなことが、SAPIO誌上に書いてあった。勿論彼等の人事に栗林が全く無関係ということは有り得ないが、正式な権限は栗林には無い。最終的な決定は東京である。

硫黄島シリーズは次で最後。明日映画見てくる。

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