烈兵団長佐藤幸徳

以下は毎日新聞コラム「記者の目」より転載

◇軍命に背いた決断を本に−−師団長の文掲載し警鐘

 第二次世界大戦で「最悪の戦い」と呼ばれたインパール作戦(1944年)に従軍し、生還した旧日本陸軍「烈」部隊中隊長、中野誠司さん=香川県三木町=がこの夏、89歳で亡くなった。戦後「鯨・烈山砲戦友会」会長として戦病死した部下らの慰霊に努めた中野さん。私は高松支局勤務だった今年4月、戦友会が編さんした本「鎮魂」の取材で知り合い、その追悼の念の深さと、戦争への怒りの強さに打たれた。また一人、戦争の実相を伝える語り部を失った今、もっと話を聞きたかったと痛切に感じている。

 中野さんは36(昭和11)年に徴兵され、翌年に士官候補生になり、その後は中国戦線を転戦した。「鯨」は日中戦争の部隊、その後インパール作戦のために編成した部隊が「烈」だ。いずれも山砲(砲兵)部隊は四国出身者が中心だった。中野さんは中尉として弾薬補給を担当する中隊を指揮した。食糧や弾丸の補給が無いままビルマミャンマー)の高地からインドに突入し、参加兵10万人のうち7万人以上が戦病死したとされる無謀な戦いだった。

 中野さんの中隊で小隊長だった同戦友会元事務局長の香川弘文さん(84)=同県多度津町=は「他人を助けられる状況ではなく、中野さんも病気や飢えで動けなくなった部下を見捨てざるを得ないことがあったようだ。だがその時のことは60年以上の付き合いで一言も口にされなかった」。中野さんは自宅で毎日、直接の部下247柱の位牌(いはい)「中野隊所属陣没将兵之霊」に手を合わせていたという。

 「鎮魂」は中野さんの思いが結実した本だ。A4判約220ページ。ビルマ戦線の「烈」山砲部隊戦病死者1276人の名簿に加え、兄を亡くした遺族の手記などを載せた。手記には、兄の最期を戦友に問うと「むごくて話せません。ご了解下さい」という手紙が届いたとの逸話が記されている。

 しかし、何より強く印象に残るのは、部下を全滅から救うため死刑覚悟で独断で部隊を撤退させた烈師団長、佐藤幸徳中将の話だ。44年4月、インド北東部での戦闘は雨期に入って食糧や弾丸の補給も無く、ビルマ方面軍に何度も撤退を打診したが拒絶され、同6月に独断で退却。その際、同方面軍参謀長に激烈な軍部批判の電報を打った。

 「でたらめなる命令を与え、兵団がその実行を躊躇(ちゅうちょ)したりとて、軍規を楯(たて)にこれを責むるがごときは、部下に対して不可能なることを強制せんとする暴虐にすぎず」「作戦において、各上司の統帥が、あたかも鬼畜のごときものなりと思う……各上司の猛省を促さんとする決意なり」

 防衛庁防衛研究所によると、旧陸軍は佐藤中将を軍法違反に問おうとしたが、惨状の責任が上層部に及ぶことを恐れて中将を予備役に編入、事実を隠匿した。

 「鎮魂」の裏表紙に、戦友会の綱領「われらは戦争の実相と平和の意義を次代に継承する それが苛烈(かれつ)な戦場から生き残った者の使命だから」が大書してある。軍の無責任な作戦で20代の命を無駄にし、自分が生き残るために同僚や部下を見捨てざるを得なかった。そんな無念が戦後60年を過ぎても彼らを突き動かしたのだろう。64年生まれで戦争を知らない私の胸にも、迫るものがある。「戦死者を弔うために靖国神社にお参りに行く団体」としか考えていなかった戦友会への認識を改めた。

 香川さんは「師団長の文書を載せることが中野さんの願いだった。『この本を出さんと死ねん』と話していた」と教えてくれた。中野さんは猛暑の8月6日、ビルマでの戦病死者を追悼する香川県内のパゴダ(仏塔)に、自宅に祭っていた位牌と「鎮魂」を自ら奉納に行き、その3日後に亡くなった。位牌は長年の線香の煙で黒光りし、中野さんの執念を伝えるようだ。

 高松市の山中に、戦友会会員が建てた烈師団長を悼む碑がある。多くの会員が「師団長が軍命に背いて撤退を命令してくれたから私たちは生還できた」と話す。碑の前に立ち、中野さんに問いかけてみた。「戦友が動けなくなった中、どんな思いで撤退したのですか」「師団長の文書を載せた真意は」。多少の遠慮もあって心の底の思いを聞けないままだったことを、今更のように後悔した。

 記者としてできるのは、体験者から取材し、記事として残すことだけだ。それも一日も早く。そうしなければ、貴重な事実が歴史の闇に埋もれてしまう。中野さんの死に接し、その思いを新たにした。

http://www.mainichi-msn.co.jp/eye/kishanome/news/20061006ddm004070075000c.html

以上引用終わり。以下雑談。
佐藤幸徳という人は、僅かに引用された日記などを読む限り、異常に自負心が強く、完全に自己を正当化して何ら疑わない(信念が強いとも言える)、ある種の軍人の典型例と言える。こういう人は方向を間違えるとやばいが、この場合は、この強さが良い方に出たと言えるだろう。ディマプールに突っ込んでいたらと言う人もいるが、それは南海支隊にポートモレスビーに突っ込んでいたらと言うのと同じで、結局更に酷いことになっていた可能性大である。
それにしても当時の緬甸方面軍に集まった面子は凄い。佐藤に牟田口廉也田中新一花谷正桜井徳太郎片倉衷、そして辻政信。これは河辺正三では完全に力不足。抑えきれるわけがない。

 

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