橘丸事件

61年前の8月3日、病院船橘丸は、バンダ海上で、米駆逐艦からの停戦命令を受けた。橘丸には、第五師団の第十一聯隊第一、第二大隊と第四十二聯隊の一個中隊が乗っていた。臨検によって隠していた武器を発見した米艦は、直ちに橘丸を拿捕、乗っていた将兵を捕虜とした。病院船を使った兵力輸送は国際法違反であった。

8月5日、カイ島で、橘丸の拿捕を知った第五師団参謀長浜島厳郎大佐は、翌日自決した。飛行機で先行していた第十一聯隊長佐々木五三大佐は、スラバヤでこの情報に接して驚き、第五師団長山田清一中将に、進退伺いの電報を送った。セラム島の山田師団長からの返電は、7日頃届いた。それは『この事件の責任は師団長にある。私に任せよ』というものだった。

橘丸の拿捕を知った南方軍総司令官寺内寿一は激怒した。参謀副長の和知鷹二によれば、『広島十一聯隊は武勇の誇り高い名門である。生き恥をさらすのは皇軍の不名誉この上もない。直ちに爆撃機を出して橘丸を撃沈してしまえ』といったというから尋常ではない。自分で命令しておいてよくもまあこんなこと言えたものだと思うが、あるいは病気が脳までまわってたのか。

そもそも第五師団では、病院船を使った兵力輸送に反対であった。それを「光輸送」といって強行したのは南方総軍であった。しかし戦後は一転して、責任をすべて第五師団になすりつけた。第五師団が属していた第二軍司令官豊島房太郎中将もまた、『内部的責任は総軍、外部的責任は第五師団にある』というわけのわからない証言を行い、自らの責任については、『知らぬ存ぜぬ』を貫いた。軍司令官のこうした態度は、直属の参謀からも反感を買い、北森信男中佐は巣鴨に於いて、豊島中将に対し、『責任を回避すべきでない』とかなり強硬に申し入れたと言う。しかし結局総軍も第二軍も最後まで、病院船に兵士を乗せたのは第五師団の独断であるという主張を続けた。なぜなら、参謀長に続き、師団長山田清一もまた、8月15日、セラム島において自決していたからであった。

7日、セラム島で浜島参謀長の遺骨を迎えた山田中将は『ご苦労だったなあ』とまるで生きている人間に話しかけるように言った。15日、終戦の事実を確認すると、山田中将は一人黙って姿を消した。師団長不在に気付いた部下が探すと、裏山の防空壕の中で、額を撃ち抜いて倒れている山田の遺体が発見された。山田は開戦時、整備局長の職にあり、省内会議で、貯油量の不足を理由に、東條の前で敢然と開戦反対を主張した人物であった。学者肌で、当然病院船による兵力輸送が国際法違反であることを承知しており、ちゃんとした輸送船を回すように要求していた。橘丸しかないとわかったとき、静かに『米軍に臨検を受けたら終わりだね』と言ったという。

当時の裁判において、死んだ人間に責任をかぶせて、すこしでも”被害者”を減らすという手法は、必ずしもおかしいことではない。あるいは沼田多稼蔵参謀長も、『すべては第五師団の独断』などという事実に反する証言を行うことは苦痛であったかもしれない(副長の和知は割合率直に責任を認めているが)。しかしそれによって、生き残った第五師団の人々は酷い目にあった。今や何憚ること無い時代である。責任の所在は明確にされるべきである。名誉は回復されるべきである。

山田中将は非常な母親っ子であった。賢母の誉れ高かった母は『どこまでもいつまでもお前について離れずにいるよ』という言葉を残して逝った。南方の陣中で母の訃報に接した山田は、肌身離さず持っていた母の写真を取り出してむせび泣いたという。

いつくみし はぐくみ給いし母君の みたまはわれに今ぞ移りぬ


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