バルトの楽園・ドイツ捕虜収容所と西郷

バルトの楽園という映画が公開中だ。私は未見なのだが、第一次世界大戦のドイツ人捕虜収容所を舞台にした映画で、主人公は松江豊樹大佐のようだ。会津出身ということから早速星亮一氏が本を書いてる。ただマツケンはどうも苦手だ。何かコスプレに見えてしょうがない。

ところでバルトというのは髭を意味するそうだ。おいらが何の疑いも無くバルト海だと思い込んでたのは内緒。

 


チンタオ陥落で捕虜となったドイツ人を収容する捕虜収容所は、この徳島以外にも10箇所以上あった。所長にも後の大将真崎甚三郎松木直亮といったドイツ駐在経験のある人々が充てられた。福岡収容所所長を務めた白石通則は後に中将となった。終戦時の宮城事件で義兄の近衛師団森赳と共に、畑中少佐らに斬殺された白石通教中佐は、この人の次男にあたる(森の妹が白石に嫁いでいた)。

習志野(最初は浅草にあった)収容所の所長を務めたのは、西郷隆盛の嗣子、侯爵西郷寅太郎大佐であった。父西郷は西南の役で賊徒となったが、明治帝の西郷への愛情は変わることが無く、寅太郎は明治帝特別の思し召しにより、18歳のときドイツへ留学した。

ドイツでプロシア陸軍の士官学校を卒業し少尉に任官された寅太郎は、帰国後、帝國陸軍の歩兵少尉に任官された。こういう経歴の持ち主は後にも先にも彼一人である。明治35年、侯爵受爵が伝えられると、彼が母と2人で暮らす借家に、徳川慶喜が馬車で乗りつけ祝福した。

彼が歩一の大隊長時代、同じく歩一に勤務していた樋口季一郎の回想に、第一師団の秋季演習時の面白い話が載っている。富士の裾野で行われた演習の初期、第一旅団長統裁の南北支隊対抗演習が行われた。西郷は南軍の支隊長を務めた。ところが夕食に一本付けさせた西郷支隊長は、一本が二本になり三本になり遂に眠り込んでしまった。前線からは引きも切らさず情報は入ってくる。副官たちはてんてこ舞いだ。そんな時、審判官である歩兵第一聯隊長がやってきた。聯隊長はひっくり返っている西郷を見て驚き、「西郷君、西郷君」と体を揺すったが、先生一向に起きる気配が無い。そこで腹をくくった聯隊長は、自分が西郷の代わりを務めることにした。日付が変わってようやく目を覚ました西郷は、各隊の命令受領者を集めると、副官の捧げる支隊命令を躊躇無く読み上げた。それが、直属の上官であり、この演習の審判官でもある聯隊長の書いたものであるとは露知らず。

ドイツに長くいた彼は当然ドイツ語が堪能であった。時々兵隊にドイツ語で号令をかけたというが、これは嫌味でやってるのではなく、自分では日本語で言ってるつもりが自然にドイツ語になったという(そういえば先日お亡くなりになった吉村昭先生の『長英逃亡』という小説で、高野長英が階段から突き落とされたとき、「危ない」とオランダ語で叫んだというエピソードがあったのを思い出した)。こんな彼であるから、ドイツ人相手の捕虜収容所長は打ってつけの仕事である。着任した彼は「戦争は政治的関係で、人民其の者に対しては何等の敵意がない」との訓示を下した。日本にソーセージの製法を伝えたのは、この習志野収容所に収容されていた職人さんであった。しかし、大正8年1月、世界的に大流行したスペイン風邪に罹って、西郷寅太郎大佐は、命を落とした。享年54歳。


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