三浦観樹回想記・最終

高杉晋作のこと
高杉という人はまったく偉人であった。乃公がこれまで偉い人だと思ったのは、高杉一人だけだ。長州で門閥を打破し人材の抜擢に努めたのも高杉だ。伊藤、井上、山縣、品川、鳥尾、それに乃公と、皆高杉に抜擢された。乃公などは高杉から随分可愛がられた。そのころからよく山縣とは衝突していたが、
「狂介ごときを眼中においてどうなるものか」
とよく言われたよ。
大西郷を偉いという人がいるが、あれはただボーっとしているだけだ。高杉は違う。機略縦横、ゆくとして可ならざるはなしである。

木戸孝允のこと
木戸は乃公より11歳年上で、まずは兄貴分といったところだ。乃公とは立場が違ったが、全く同意見だった。彼は長州出身であっても決して長州味の無い人で、あくまで薩長の情実人事を打破して、公明正大な政治を行うことを目標にしていた。木戸はまったく立憲政治の主唱者、先覚者だ。彼は何事についても進歩的な意見を持っていた。
木戸は若い頃斎藤弥九郎道場の塾頭をつとめたほどの手練れであった。ある年の正月、黒田清隆が木戸のところに挨拶にした。そしてさんざん飲んで暴れ始めた。木戸がなだめても言うことを聞かない。挙句には木戸に掴み掛かった。しかし木戸は剣術だけでなく柔術も心得ておる。黒田はただ蛮勇だけで木戸の敵ではない。木戸は飛び掛ってきた黒田に大腰を掛け、物の見事に投げた。そして喉を締め上げて
「どうじゃまいったか」
というと、黒田も
「まいった、まいった、ゆるせ」
とあやまるので、駕籠を呼んで送り出してやった。その一件以来、あの乱暴者の黒田が、木戸にはすっかり閉口しておった。

伊藤博文山縣有朋
あるとき郷里の者が、東京に出て二人を訪ねた。その後乃公のところに来て、
「山縣さんのところは、取り扱いが誠に親切であったが、伊藤さんは大違いでろくに話もきいてくれない」
というので、乃公は
「なるほどそれはちょっとそう見えるが、伊藤の泣くおりは、本当の涙を流すが、どうも目白の涙はあてにならんぜ
と言ってやった。この話を後に陸実が聞いて、それは名評だと、新聞に載せたそうだ。
山縣が自伝を出したといって一冊よこした。読むと、山縣が馬関にいたとき、伊藤が高杉の紹介状を持って尋ねてきたという一節があった。紹介状には「この者見込みがあるから、よく引き立ててやってくれ」というようなことが書いてあったという。それを読んだとき、乃公もこれはちょっとおかしいなと思ったが、果たして、伊藤がこれを読んで激怒した。
「山縣という男は実に驚き入った奴だ。予とあいつとは、松陰先生門下で一緒にやってきた仲じゃないか。何でわざわざ高杉の紹介状を持っていくことがあるか」
ところが山縣の方も、紹介状は今でも確かにあると言い張る。そこで乃公は、それはあるのかも知れないが、そんなこと態々書いて、伊藤を怒らせることは無いじゃないかと言うと、山縣もそれはそうだと折れて、次の改訂版で削除すると言ったが、結局そのままになっているようだ。
伊藤が暗殺された年の年末のこと、ふと新聞を見ると、伊藤の遭難写真が国技館で公開されるという広告が載っていた。乃公はこれは実にけしからんと思い、直ぐに山縣に、止めさせるよう桂に伝えろといった。山縣も分かったと請合ったので、安心して熱海に行った。ところが帰ってきて新聞を見ると、予定通り興行が行われたという。驚いて山縣に詰問の手紙を出したところ、年末年始の忙しさで忘れていたという。更に内務大臣の平田東助からも手紙があり、件の写真は真っ黒で何が何やら分からぬので、差し支えないと思って許しましたという。写真が黒いとか白いとかは問題ではないのだ。卑しくも国家の元勲の遭難の実況を鉦太鼓で囃しながら見世物にするのが問題なのだ。この点、自分は絶対に看過できないと怒った。政府は遂にその写真を買い取ったそうだ。

後藤新平のこと
まだ後藤に会う前、人に後藤の人物評を聞かれ
「あれは子供が植木を植えるようなものだ。朝植えると昼にはもうついたかと、抜いてみないと気がすまんのじゃ。あれが何かをやったってつく気遣いがない」
と言った。その後、寺内のところで初めて後藤と会ったとき、後藤がこの話を持ち出し、
「三浦さんは私のことを子供が植木を植えるようなものだと言われたそうですね」
と言うと、それを聞いた寺内が偉くうけて、頭を押さえて大笑いした。後藤は不満そうに
「私だって衛生局長なんて詰まらん仕事を7年も続けてました。朝植えて昼抜くような馬鹿なことはしません」
というので、
「そんなことは知らんが、乃公が見たところ子供の植木だ」
と言ってやった。寺内は大いに笑っておった。

山本権兵衛のこと
山本が総理大臣になって枢密院に来たとき。乃公は山本の顔を見ると、
「やあ山本、今年は薩摩芋が豊作だそうだが、芋焼酎ばっかり飲むなよ。近所が困るぜ」
と言ってやった。山本は二の句が継げず
「馬鹿ぁ」
と言っただけで出て行ったが、廊下へ出た後でまた引き返して、扉を開けるとそこから半分だけ顔を出して
「三浦、萩の餅はもうかびたぜ」
とだけ言うと、さっさと帰っていった。咄嗟に良い返しが思い浮かばず、ずっと考えてきたが、廊下に出てからそれが思い浮かんだので、引き返してきたらしい。山本はこういう快活で面白い男で、乃公は彼と話をするのが大好きだった。

恐妻家の谷干城
土佐は難治の国で知られていた。明治25、6年のこと。谷が故国土佐の県知事をやると言ってきた。農商務大臣までやった男が、故郷のために県知事をやるという。それも知事の上役、内務大臣は谷の仇敵井上馨である。谷は偉い男だと皆感心した。ただ伊藤だけは、谷は大丈夫かと念を押す。妙なことを言うなと思って居ると、数日して谷が困った顔でやってきた。聞くと妻やら陸実やらが反対してどうもだめだという。しょうがないので井上と2人で伊藤のところへ行って事情を話すと、伊藤は
「女房に言われて進退を変えるとは情けない奴だ。谷にはときどきこういうことがある。だから俺は念を押したんだ」
とぶりぶり怒ったが致し方ない。結局その趣を上奏して、谷の県知事就任は沙汰止みとなった。

大迫尚敏と大寺安純
鳥羽伏見の戦いのとき、乃公は薩摩の陣屋でタバコをもらったことがあった。ずっと後年、宮中で昔話をしていると、大迫があれはあなたでしょうと言う。そこで、
「あのときマッチをすってくれたのは誰か」
と聞くと
「それが私です」
と言う。
「これは不思議だ。ではタバコをくれたのは」
と聞くと、
「あれは大寺ですよ」
と言う。大寺は日清戦争で戦死した。
「そうか、そうであったか」
と今更ながらに、懐旧の情を催した。大迫は後に兄弟そろって大将に昇進した。大寺も生きていれば、同じく大将になった男であった。