昭和天皇の靖国発言

話題になっているのは、速記とかではなくメモなので、それだけ読むと、松岡と白鳥には気の毒すぎるように思うが、親英米派の昭和天皇らしい発言だと思う。

君臨すれど統治せずが建前の天皇であるが、それでも何度か政治介入しているし、軍人の人事にまで口を出したこともある。2.26事件や終戦時の御前会議は言わずもがなだが、山下奉文石原莞爾親補職への就任をご裁可されなかったことは夙に知られる。石原は板垣の、山下は同期の阿南沢田の計らいで、何とか2度目のトライでご裁可を得ているが。

昭和天皇の人物の好みの一つとして、何でも細かく嘘をつかずに報告(上奏)してくる人物が挙げられる。故に東條英機は寵愛されたし、松岡などは嫌われただろう。

ここに一つ、一般的にはあまり知られていないが、私個人としては非常に重視している昭和天皇の人事への介入例がある。阿部信行内閣の陸相人事である。次期陸相というのは通常、陸軍三長官の会議で決まる。もっともそこには人事局長なども出ることがあり、厳密に三人だけで決めるというわけではないが。阿部内閣の陸相には、この三長官会議の結果、四人の候補の中から阿部と同じ兵科で、人物に偏りの少ない多田駿が選ばれ、人事局長が牡丹江目指して出発した。

ところが参内した阿部は、天皇から、”陸相には梅津を。それ以外の者は認めない”という思わぬお言葉を聞いて仰天する。梅津は石橋を叩いても渡らないといわれた慎重居士であり、畑もまあ似たようなタイプ。梅津は関東軍司令官になったばかりということで、結局侍従武官長の畑を下げ渡し願い、なんとか組閣した。

しかしなぜ天皇はこのようなことを言い出したのか。独白録でもこのことは触れられているが、理由までは書かれていない。多田よりもう一人の候補だった磯谷を忌避したような感じもするが、それにしてもである。ただいろいろ諸事情を総合すると、やはり君側に入れ知恵した人間がいた可能性が高いと思う。

天皇のお声掛りで陸相となった畑は、就任直後の陸軍省で痛烈に従来の陸軍を批判する演説を行ったが、結局余り為すところ無く、最後は統帥部の圧力に負けて、米内内閣を潰してしまう。

一方寸前で陸相の座を逃した多田は、その後北支方面軍司令官を最後に予備役となった。彼は元々事変初期に参謀次長として、事変の不拡大に注力した所謂不拡大派の親玉であった。しかし、”平和主義者”とされる天皇に彼は忌避された。或いは参謀次長として身近に接し、不拡大を唱えながらもずるずると引きずられていった多田の姿に、頼りなさを感じていたのだろうか。

私がこの人事を重視するのは、下世話な論点だが、多田の人間関係による。彼は当時陸軍において、最も石原莞爾と親しい人間の一人であり、また最も東條英機と仲の悪い人間の一人であった。戦後最も人口に膾炙したIFの一つ、”石原の進出と東條の失脚”は、実は多田の陸相就任によって実現した可能性があるのだ。勿論その結果がどうなったかは分からない。もしかしたら東條の代わりに石原が十三階段を上がっただけかもしれない。まあ、それにしても興味をそそられるIFである。



もっとも今回のメモ、偽者もしくは勘違いの可能性もあるかも?しかし天皇の側近というのは、昔から余り人物がいない。
それと立ってるものは親でも使うマスコミの態度は、みっともない。恥と言う感覚は無いのかねえ?