2・26事件特集(10)北と支那革命

日本にいた革命諸派は、日露戦争に刺激を受けて、大同団結した。それが中国革命同盟会である。内訳を見ると、孫逸仙の興中会、宋教仁・黄興の華興会、蔡元培の光復会であり、変法派の康有為らは参加しなかった。北の加盟と同時期、「革命方略」が孫逸仙、黄興らの手によって完成した。同盟会に入った北は、内田良平黒龍会とも関わりを持つようになった。翌明治40年夏、北は張継に連れられて来訪した宋教仁と会う。同年の二人は肝胆相照らす仲となった。ちなみにこの頃多くの若者が日本の陸士に留学しているが、これはトルコ革命にヒントを得た宋教仁が同志を説き勧めたことによると伝えられている。

この頃の北は貧乏のどん底であった。共に沈没するのを恐れた弟吉は、北と離れて暮らすようになった。北は萱野の紹介で黒沢次郎の食客となった。どこへ行っても主人面をするこの人物は、11歳年長の黒沢を「お父さん」と呼びながらも、どちらが主人かわからぬ態度でこの家に住み着いてしまった。それだけでなく、黒沢の所蔵品を勝手に売りさばいたりしていた。しかし二人の交情は北が処刑されるまで変わることはなかった。

大陸においては、孫逸仙、黄興らによる運動が次々に失敗していた。孫逸仙四天王の汪兆銘は摂政王を暗殺しようとして失敗し投獄された。黄興、胡漢民らによって革命化された広東新軍の蜂起も、偶発事件から計画が狂い失敗に終わった。黄興指導の下両広総督衙門を襲撃した黄花岡事件も多くの犠牲者を出しただけであった。一方、清朝も西大后が死に袁世凱が一旦引っ込み、力を弱めていた。

明治43年、北は幸徳秋水との関係より、大逆事件連座して取調べを受ける。宋教仁は革命準備のため帰国した。帰国前、内田、北らと会談した宋は「挙兵の際には電報を打つから、極力援助を願う」と助力を依頼してきた。内田はこれを快諾。

譚人鳳は長江革命の主唱者であり、同盟会中部総会を結成して、武漢の新軍の革命化に努めていた。1911年10月9日、蜂起のために密造中の爆弾が爆発したため、官憲は革命派の根拠を襲い、武器弾薬、党員名簿を押収した。追い詰められた革命派は、翌10日、武昌城内において蜂起。これが辛亥革命の第一革命である。湖広総督、第八鎮統制官は身をもって脱出した。しかしこのとき武昌には孫逸仙は勿論、黄興、宋教仁、譚人鳳といった指導的人物がいなかった。困った蔡済民ら下士官は、自分も襲われると思って逃げ回る第二十一混成協統領官黎元洪を説得して統領に押した。

宋からの電報を受けた内田は、直ちに客分であった北を上海に派遣した。上海に着いた北は「漢口きてくれ」という宋の置手紙を見て、すぐ漢口に急行した。漢口には黄興、譚人鳳らも既に着いており、革命軍は武漢を完全に制圧していた。黎元洪が湖北都督になったが、北は譚人鳳に総統として黎の上に立つ事を望んだ。しかし譚は尻込み。宋教仁もまた黄興に臨時軍政府を組織する必要性を説いたが、黄は一戦して功を建てた後にすべしと首肯せず。二人とも分かっていないと、北と宋は嘆きあった。

この兵変に驚いた清朝は仕方なく袁世凱を湖広総督に任じた。しかし袁は勿体をつけて中々腰を上げず、ここぞとばかりに次々と要求を突きつけた。内閣総理大臣に任ぜられた彼は、表むき再三之を固辞する通電をなしながら入京、市民の大歓迎を受けて、総理大臣に就任した。

武漢において黎元洪と馮国璋との攻防が続く間に湖南を先駆とした殆どすべての各省が独立を宣言。上海も陳其美の手によって落ちた。11月16日、各省の代表が会議し、臨時政府の首都を武昌に、黎元洪を大都督とすることを決定した。12月2日、張勲の固守していた南京が落ちると、改めて南京を首都とし、大総統選挙を孫逸仙帰国まで遷延し、代わりに大元帥をたてて大総統の職務を代行させることとなった。この大元帥というネーミングは北によるもので、北は黄興を大元帥にしようとしたが、またしても彼は尻込みし、結局黎元洪が大元帥、黄興が副元帥となった。

年末孫逸仙が帰国すると、大総統選挙が行われた。17票中16票が孫に投じられた。譚人鳳だけは黄興が止めるのも聞かず黄興に投票した。北はこの国際的で現実主義的な年上の革命家が大嫌いであった。「憐れむべし偉大なる故友(宋教仁)は其擁立せんとするもの(黄興)の変心によりて一切の計画を破壊せられ独り南京諸将軍の手に残されたり」と書いている。しかしその宋も、張継の説得によって南京を出て孫の政府に参加した。孫と結ぶことについて北に諒解を求める宋に対し、北は呉越同舟だなと皮肉って、宋を怒らせている。

一方で清朝と革命政府の間では12月5日より英国公使の仲介による停戦が続いていた。袁世凱は唐紹儀を代表として送り、上海において革命軍代表伍廷芳との間で和睦会談を行わせる一方、主戦派の勇将馮国璋を禁衛軍総統として前線より引き戻し、代わりに策士段祺瑞を第一軍総統として革命軍にあたらせた。袁は当初立憲君主制を考えていた。革命軍派は当然共和制を求めた。しかし一方で革命派は、清朝打倒と共和制実現の暁には袁を大総統にという好餌で袁を引き込もうとした。この会談は協和に反対する馮国璋、段祺瑞、段芝貴、張勲、曹錕ら主戦論者によって一旦は破談となり、袁もまた皇室に対し多額の軍資金を要求したが、これはポーズであった。両派の間で合意がなった。袁は共和制に強硬に反対する宗社党の良弼を暗殺し、それとともに先頃強硬に共和制に反対していた47将が連名で共和の実行を上奏した。こうして2月12日遂に清朝は滅亡した。2月14日臨時大総統孫逸仙は辞任し、3月10日孫の推薦を受けた袁世凱が臨時大総統に、黎元洪が副総統に選ばれた。しかし袁は南京で就任することを要求する革命派に応ぜず北京に居座った。