2・26事件特集(9)北一輝

大正年間における民間の革新勢力について触れるが、その前に、その中心人物たる北一輝の半生を軽く見ておく。

北輝次郎は明治16年佐渡に生まれた。軍人でいえば永田鉄山と同学年になる。生家は酒屋で父慶太郎は町長を務めていた。輝次郎には吉、晶作の二人の弟があり、兄弟みな学校の成績はよかったが、輝次郎だけはひ弱なところがあり、吉などはこの兄を、弱虫と馬鹿にしたところがあった。父も叔父の本間一松も自由民権が好きで、尾崎紅葉佐渡に来るのを、尾崎行雄が来ると勘違いして、芸者を動員して迎えに行ったというエピソードもある。そういう環境で育っただけに、輝次郎も政治や思想に早くから興味を持ち、18歳で佐渡新聞に国体論についての連載を持った。一緒に寝ている二弟晶作が、兄が布団の中でブツブツ言うのを聞いていると、それが数日後の佐渡新聞に載った。しかしこの内容が不穏当ということで、連載は中止された。同郷の山本悌二郎(後の農林大臣、有田八郎の実兄)は、このころの輝次郎と会った印象を人に、「あの青年は恐ろしい。話を聞いていると何か魅入られるようで気味が悪かった」と語っている。山本は16歳も年上である。後に魔王と呼ばれるカリスマ性はこのころから抜群で、佐渡新聞の社長も主筆も、すっかりこの青年のファンであった。

23歳のとき、早稲田に入った吉の後を追うように上京、自らも早稲田の聴講生となった。そして翌年『国体論及び純正社会主義』を脱稿。発売禁止を恐れながら自費で出版したこの大著は、非常な反響を巻き起こした。吉は当時を振り返って「一日にして雷名を馳せた。バイロンがチャイルド・ハロルドを公にして"I awoke one morning, and found myself famous"といった概があった」と述べている。感激した河上肇は病床の輝次郎を態々訪ねた。矢野竜渓は「北輝次郎とは仮の名で、幸徳あたりの執筆ではないか、二十幾歳でこれだけの書をまとめあげる人はいないはずだ」というような内容の手紙を送ってきた。しかしやがて恐れていた発禁処分が下る。発禁と聞いた堺利彦が、私達の手で売りさばいてやろうと言ってきたので、百部だけ1円の値段で引き渡したが、手違いからこの金は北の元に届かなかった。「それから僕は主義者をますますきらいになった」とは、病気の兄に代わって本の処分を行っていた吉の述懐である。その後、分冊にして売り出したが、肝心の国体論の部分を出すことが出来ず、兄弟の生活はますます苦しかった。堺や幸徳の世話になりながら、早稲田に通っていた二弟晶作を、明治大学に転校させたりしている。

このころ晶作のフランス語の家庭教師をしていたのが大杉栄である。大杉は軍人を父に持ち、自らも名古屋幼年学校を出ている。叔父は日露戦争の万宝山でドカ負けを喰らった山田保永中将、山田の息子で憲兵司令官などを務めた山田良之助中将(5期)は従兄弟と、生粋の軍人家系であった。以上余談。

平民新聞にもう一つ馴染みきれなかった輝次郎に革命評論社の誘いがかかる。同人としては宮崎寅蔵、萱野長知、清藤幸七郎、平山周らがいた。弟を偵察に出した輝次郎は、その報告を聞いて心を動かされる。明治39年11月3日、遂に彼は革命評論社を訪れた。迎えた人々はこれを大歓迎し、宮崎などは輝次郎が小用に行くとき、態々便所の扉を開けてくれるというような待遇であった。鬱屈とした日々を送っていた輝次郎にとって、中国革命という新たに開かれた世界は魅力的であった。彼はまもなく革命評論社同人となり、中国革命同盟会に入会した。