2・26事件特集(11)友の死と第二革命

911(明治44)年12月、北はすず子と結婚した。北29歳、すず子28歳、勿論自由恋愛の末であった。

3月10日袁世凱の臨時大総統就任と同時に、南京の参議院で制定された臨時約法五十六条が公布された。これこそが宋教仁が袁の力を抑えるために作り上げた法であった。かつて宋は孫文の元で内務総長に就任することが決まっていた。しかしこれは参議院の強烈な反対で反故となり、法制院総裁に収まったという経緯があった。それにも関わらず、総長大公使などの任命に参議院の承認が必要とするという同法案を起草しつつあることに訝った北が尋ねると、宋答えて曰く「統一後今日の形成を以ってせば袁或いは大総統たるべし。吾党議会によりて彼を拘束すべきのみ」。彼の遠謀や思うべしである。

3月30日唐紹儀内閣が発足し、宋は農林総長に任命された。唐内閣の最初の仕事は英米仏独の4カ国に日露を加えた6カ国からの借款を取り決めることであった。これを聞いた北は猛然と反対の意を宋に伝えた。宋は北京に飛んで借款無用論を主張し、世論も借款無用に傾いた。北と宋は以前にも、孫文と日本の間で結ばれた秘密借款を潰したことがあった。この混乱で唐は辞任し、後任に陸微祥が就任した。

8月、旧同盟会を中心に国民党が結成され理事長に孫文、理事に黄興、宋教仁、王寵恵らが就任した。袁派の黎元洪らは共和党を結成し、これに対抗した。翌1913(民国2)年2月、初めての総選挙が行われ、衆参両院で国民党が圧勝した。宋の目論見は的中した。袁は妥協的な孫よりこの若き不屈の革命家を恐れた。そしてお得意の手に出る。

民国2年3月20日午後10時、上海北の停車場に銃声が響いた。北京に向かうため汽車を待ちながら、黄興、于右任らと談笑していた宋教仁が倒れた。2日後の朝、32歳の若き革命家は逝った。北は痛憤して言う。「ああ天人倶に許さざるの此大悪業よ。・・・彼は滝の如く滴る血潮を抑えて于右任君の首を抱き遺言して曰く。南北統一は余の素志なり。諸友必ず小故を以って相争ひ国家を誤ること勿れと。一宋の死は革党の脳髄を砕きたる者なりき。黄は棺を抱き腸を絞りて泣けり。譚は後れ来たりて獅子吼したり。天下騒然

宋の葬儀は盛大な国民党葬となった。棺を担ぐ中心には北の姿があった。沿道で見送る北夫人の前で、葬列は5分間歩みを止めた。生前の北と宋の関係に敬意を表したものであろう。

陳其美の捜査で下手人武士英は袁世凱の腹心趙秉鈞総理の命を受けた内務部秘書洪述祖のとつながっていたことが明らかになった。しかし北は独自の見解を持った。袁は従犯にすぎず、真の主犯は革命の同志陳其美であり、其の後ろで糸を引いたのが孫文だというのだ。彼に言わせれば、外国からの借款を拒んだ宋は、選挙によって絶対多数を取った余勢を駆って大総統選挙に臨み、そこで黎元洪を推し、自分はその下で黎を傀儡として縦横に腕を振るうつもりだったという。袁・孫を排したこの計画が、両陣営を刺激し、暗殺につながったと信じる北は「一の従犯袁は北京より弔電を致せり。他の大いなる其れは最も大なる花輪を送れり。悲しめる黄は唯進退に迷ひ、怒れる譚は武力解決の外なしとしたり」と怒る。

確かに宋と孫は行き方を異にしていたが、革命への志では変わるところはなかった。この北の考えは黄興すら受け入れられず、面会を謝絶される。いよいよ怒った北は、宋暗殺の”真相”を暴露しようとして遂に、向こう3年間の退清命令を受ける。民国2年4月、北は追憶とともに悄然と中国を去った。「満洲馬賊運動より帰りし彼(宋)の始めて来訪せし7年前のこと。刑吏追尾され、時に一飯の食を分かちし窮時のこと。・・・武昌都督府の瑠璃窓に震ふ砲声を聞きつつ宿志遂行の欣快に寝物語せし抱寝のこと。砲弾落下の中を漕ぎて蒼白の顔を見合わせながら弾丸は中らずと豪語せし若さのこと。同時声を合わせて生きていたかと相抱きし南京城外の嬉しかりしこと。横死の前日議論を上下して相争いし後悔のこと。白きベッドに横たわりし死顔のこと。主犯者が空涙を浮かべつつ是れ宋先生の親友なりとして未知の弔者に不肖を事々しく紹介せし挙動の不審千万なりしこと。黄興于右任君等の腸を絞るが如き泣声の耳を離れざりしこと。そうろうとして棺車を引きし思い無量の長途なること。霊前に別を告げんとして至るや、讐を報ずるの日を待てと思うと共にハラハラと落涙せし昨日のこと」。北が想い出すのは宋のことばかりである。

さて宋が死に北が去った後、袁世凱は国会の承認を得ずに、日英独仏露の5カ国と2500万ポンドの借款を結び、それを使って革命派の切り崩しにかかった。怒った国民党が反袁運動を始めると、待ってましたとばかりに袁は国民党出身の三都督李烈鈞(江西)、柏文蔚(安徽)、胡漢民(広東)を罷免した。

民国2年7月12日、まず江西の李烈鈞が独立を宣言した。第二革命の始まりである。7月15日黄興の指導の下に江蘇都督程徳全が、18日広東の陳烱明がそれぞれ決起し、安徽の柏文蔚、福建の許崇智、上海の陳其美らも続いた。日本からも李烈鈞の要請で山中峯太郎が参加した。しかし北はこれを冷笑的に見ていた。実際たいした準備もなく始まったこの決起は2ヶ月足らずで制圧され、孫文以下革命派は続々と日本に亡命してきた。山中も、江西奥地に取り残された林虎を助けるために偽の林虎になって帰国した。

東京の北の元にも多くの亡命客が訪れるようになった。譚人鳳は息子夫妻を連れてやってきた。若き張群も親しく往来した一人であった。張は北の二弟晶作について日本語を学び、一旦帰国すると妻を連れて再来日した。そして自らは陸士に入校し、妻は長崎の女学校に入れた。譚の息子弐式の妻が長崎において男児を生んだ。弐式が後に殺されると、譚はこの遺児を北夫妻に託した。これが北大輝である。数奇な運命をたどった大輝は終戦後の8月19日、奇しくも義父の命日に上海で病死した。その遺骨は5年後の昭和25年、張群の胸に抱かれて故国へ帰るのであるが、これはまた別の話。