通化事件―“関東軍の反乱”と参謀・藤田実彦の最期

南京攻略の戦車隊長として有名な藤田大佐は、終戦時第125師団の参謀長であった。8月16日、大佐は関東軍総司令部に電話をかけ、「軍命令は聞かない、玉砕あるのみ」と訴えた。が、応対に出た草地貞吾大佐に「軍命令を聞かないなら逮捕令を出しますぞ」と言われ、ようやく「では停戦命令があったということだけは師団に伝えよう」と言って電話を切っている。草地大佐は後に、このとき逮捕令を出していれば、あのような悲劇は防げたのではないかと回想している。

藤田大佐はその後、武装解除を待たず師団を離れ、身を窶し、家族を連れて通化を離れ、石人に落ち着いた。ソ聯と入れ替わりに通化に入った中国共産党は、通化省指導者の粛清を始めた。藤田は、もし自分の居所が露見した場合、匿ってくれた人々にも害が及ぶのではないかと考え、自ら竜泉ホテルの八路司令部に出頭した。八路側もこの藤田の率直な態度に好意を持ち、藤田はすぐに石人に帰ってきた。

当時の通化は、早々に中共に取り入った日本人から成る日解連が好き放題に振舞っており、居留民の反発を買っていた。また正規の八路の軍紀は厳しかったものの、金日成直系の李紅光に率いられた朝鮮人部隊(日本人は新八路と呼んだ)が、「36年の恨」を口にしながら、暴行、掠奪、処刑と残虐な所業で日本人を震え上がらせていた。このような状況下では、「関東軍の軍人が国府と組んで八路を追い出す」というようなデマに人々が飛びつくのも無理は無かった。日本人も国府系の中国人も、この噂を信じたがった。そして藤田大佐こそ、その関東軍の軍人であると考えた。

藤田は、このような考えは危険だとして、若い人たちを諌めると称し、11月頃、通化へ向かった。通化での居留民大会は、八路の劉司令出席の元にも関らず、日解連への非難大会となった(ちなみに、この大会で発言した日本人は、後に悉く処刑された)。宮城遥拝と天皇陛下万歳が叫ばれ、最後に藤田が壇上に立った。しかし藤田の演説は、八路との協力の必要性を訴える至極穏健なものであった。この大会の後、竜泉ホテルに呼ばれた藤田は、そのまま監禁されてしまう。これは1月5日頃のことであった。

1月10日、日解連の幹部を含む140名の日本人が八路に逮捕された。そのうちの一人、河内亮通化県副県長は、21日に人民裁判にかけられ、市中引き回しの末、銃殺された。さらに10数人が銃剣で刺したため、死骸は蜂の巣のようであった。通夜の席で、太田協和街班長が「河内君、この仇は、必ず討つぞ」と叫んだ。2月3日の蜂起の計画は、既にこの頃かなり進んでいたと思われる。後押ししていたのは、国民党のスパイであった。彼等は、監禁されている藤田大佐を奪還し、(藤田の意思に関らず)これをシンボルとして使うつもりであった。1月15日、藤田は竜泉ホテルの3階から脱出した。しかしこれは、蜂起に参加するためか、それとも止める為か判然としない。藤田は脱出時に怪我を負い、結局蜂起にはまったく加わらず、八路に逮捕されるまで、民家の押入れにずっと居た。

2月3日午前、電灯の点滅を合図に、一斉蜂起が起った。目的の中には、愛新覚羅溥傑の浩妃殿下救出もあった。しかしこの計画は、事前に完全に八路に漏れていた。当時の通化国府、八路のスパイが入り乱れ、中には、少しでも日本人を救う為にと、二重スパイになった者も居た。その上、計画の首謀者の一人で大尉を自称していたAが八路に通じていた疑いすらある。そのような状況で、秘密が守られるはずは無かった。碌な武器を持たない日本人部隊は簡単に鎮圧され、苛烈な弾圧が始まった。この間藤田は、前述の通り、民家の押入れに居て、全く蜂起に加わっていない。

1月10日に逮捕された通化の有力者達が囚われていた獄舎を襲撃した佐藤少尉以下日本人は、入り口に据えられていた軽機に射すくめられ全員戦死した。八路はその後、軽機を獄舎に向け、140人全員を射殺した。夜が明けると、八路は各戸別に日本人を襲い、16歳から60歳までの男子を逮捕した。彼等は厳寒の中、狭い獄舎に押し込められ、一人ずつ呼び出されては拷問された。2月3日の蜂起で戦死した日本人はおよそ300人。事件後に殺された日本人は1000人に及ぶという。また女だけの留守宅は、朝鮮の新八路に襲われた(強姦され自決した女性もいた)。

2月5日、藤田も逮捕された。そして処刑よりも惨い処罰を受ける。藤田は、国府のスパイ孫耕暁とともに、3日間に渡り百貨店のショーウィンドーに立たされた。藤田は痩せてやつれた体に中国服をまとい、風邪を引いているのか始終鼻水を垂らしながら「許してください。自分の不始末によって申し訳ないことをしてしまいました」と謝り続けた。心ある人たちは見るに忍びず、百貨店に背を向けた。その後間もなく、藤田は肺炎で急死した。彼の死後間もなく、中共は方針を転換し、寛大政策をとるようになり、通化の治安も劇的に良くなった。そして夏には遂に、日本人に帰国の許可が出た。

著者は、藤田が戦車第一聯隊長だったときに、偶然彼と知り合い、それが縁で永くこの通化事件について調べておられる。この本以前にも2冊ほど藤田大佐と事件に関する本を書いておられるが、その本を読んである女性が著者に連絡してきた。その女性こそ、藤田が竜泉ホテルを脱出してから八路に逮捕されるまで一緒に居た看護婦であった。彼女との出会いが結実したものが本書である。通化事件の決定版と言い得るか。

在りし日の藤田実彦大佐