探訪保守 出雲挑んで知った怖さ

去年だったと思うが、出雲の封建時代チックな内幕を、この記事でも一回だけ出てくる田部家という家を中心に描いた特集が、朝日に載った。その時も興味深いなと思ったが、その記事は切り抜くのを忘れた。今回の記事は、その続きで、最終回。朝日新聞4月6日朝刊政治面より。

ちょっとした功名心で飛び込んだ出雲は、底無しの沼だった。
「会社には大変な恩義を感じています。ただ……すいません。一時の不義理を……」
 岩田浩岳氏、34歳。3日前まで山陰中央テレビ(本社・松江市)の看板アナウンサーだった。今夏の参院選島根選挙区(改選数1)で、民主党から自民党青木幹雄氏に挑むことを決意。2月21日、松江市で記者会見に臨んだ。ところが、晴れの舞台はうつむいたままで終わった。
「頑張れ、と言えるのは今日までだね」。取材のイロハを学んだ地元紙記者に手を握られた。
夕方のニュース番組のキャスターだった。二つ年下の妻も同じ局のアナウンサー。街に繰り出すとサインを求められることもあった。まさに「出雲の顔」だった。
1月上旬、民主党島根県連会長宅を新年あいさつに訪れた。昨秋に政権を握った民主党は島根の候補者を決定できずにいた。民主党は近年、地方局アナウンサーを各地で擁立している。「出馬してくれないか」という会長の誘いは、想定内だったに違いない。
「前向きに考えたい」と数日後に返事した。青木氏といえども75歳。野党転落でかつての威光はない。世代交代論の高まりも感じていた。妻と「まっすぐ」というキャッチフレーズを考えた。
しかし、あてにしていたボランティアは一向に集まらず、辺りは労働組合の関係者ばかり。アナウンサー時代には味わったことのない視線を感じるようになった。
「妻も退社しなければいけないかもしれない」。そうため息をついた3週間後、妻は会社に辞表を出した。出雲に挑む若者をかくも追い詰めたものは何だったか。
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岩田氏は生粋の出雲人ではない。大阪に生まれ、鳥取で育ち、高知大を卒業後、アナウンサーになった。京都出身の妻と5年前に結婚し、出雲大社で式を挙げた。松江市内にマンションも買い、出雲に溶け込んだつもりでいた。
山陰中央テレビは看板アナウンサーの出馬に慌てた。創設者は「だんさん」と呼ばれる出雲の名家でも屈指の田部家。30歳の25代目当主は将来の社長含みで役員就任が内定している。故竹下登元首相や青木氏が、政界に入る前から番頭として仕えた名門で、保守王国・出雲の総本山である。
会社側が出馬を知ったのは会見4日前、岩田氏の辞表を受け取った時だった。岩田氏周辺によると、「考え直してくれ。自民党に申し訳ない」と慰留されたが、すでに東京でポスター撮影まで終えていたという。会社側は育木氏に電話で連絡し、ホームページから岩田氏のブログを削除。東京の青木氏を訪ね、「先生、一生懸命応援しますから」と伝えた。
出馬表明の前、出雲大社の千家達彦管長が旧元日恒例の講話で、民主党の目玉政策である子ども手当を暗に批判した。「子や孫に残すものは何か。あめ玉を配るようなことで甘えて何かに頼る。そういう日本人であってはいけない」
言葉にできぬ孤独感−−。岩田氏は「実力者にお任せの政治風土を変えたい」と意気込むが、3月14日のミニ集会では、母親たちに「子ども手当って、必要と思いますか」と恐る恐る尋ねた。
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出雲は、自らに挑む者たちに同じ重圧を感じさせてきた。
錦織淳氏は、生粋の出雲人である。出雲高から東大に進み、弁護士。1993年総選挙の島根全県区(定数5)に、さきがけ公認で5位当選。小選挙区になった96年は竹下氏に、民主党から立った00年はその弟、亘氏に敗れた。
同級生を寺の庫裏に集めて出馬の決意を打ち明けたら「何を勘違いしてるんだ」と総すかんを食らった。「錦織が当選したら農道ができない」 「ブドウの苗がこなくなる」との話も広められた。東京育ちの妻と地域をはいずり、世論調査で肩を並べるまで8年。投票日前に竹下氏が死去し、喪章をつけて頭を下げる弟に大敗した。
かつて自民党を離れ、錦織氏を応援した市議を訪ねた。出雲大社に続く神門通りで土産物屋を構えている。「錦織さんという人がいましたね」 「ああいましたね。私はよくわかりませんが……」。一時、商売でも干されていたと周囲の人に聞いた。いつしか自民党に戻り、支部幹事長になっていた。
出雲の国政選挙で「民主党」の看板で勝った者はいない。07年参院選で青木氏側近の現職を破った亀井亜紀子氏は国民新党自民党から離れた亀井久興国土庁長官の長女で、津和野藩主の末裔だ。
錦織氏は00年を最後に郷里を去り、東京に戻った。当時のメールマガジンで8年にわたる出雲での闘いを「全貌はまだ生々しすぎて世に公表できない。彼らに禁じ手はなかった」と振り返った。
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私は錦織氏の最後の闘いをよく知っている。大学生だった00年、竹下王国の岩盤に挑む姿勢に共鳴し、ボランティアとして選挙を支えたからだ。政治記者となって昨秋から竹下王国を受け継いだ青木氏を担当することになったのは、因縁というほかない。
民主党小沢一郎幹事長は「青木氏は時代的役割を終えた」と宣言し、島根を参院選の象徴選挙区に褐げた。ただ私はこの連載を単なる選挙区ルポにはしたくなかった。錦織氏を苦しめた保守とは何だったのか。青木氏を育てた保守とは何だったのか。昨秋以降、保守の側からその風土に迫ってきた。連載の最後は、挑む側から保守と向き合いたいと思った。
2月、最後の取材を始めるにあたり、国会近くにある錦織氏の弁護士事務所を訪ねた。これまでの連載について彼は「表面的になぞった感じがするな」と笑った。
この半年に出会った出雲人は200人を超える。孫の代の伐採を見据えて枝刈りに励み、「私にも仕事がある」とほほ笑んだ80歳の旅館の大将。「楽譜はない。五感を研ぎ澄ませ受け継ぐ」と300年続くまちの神楽を担う若者。干拓事業を止めた住民運動を振り返り、「みんなで宍道湖を守った」と胸を張った漁師のおばちゃん。
みんな、たくましく暮らしを守っていた。そして優しかった。都会育ちの私をすんなり受け入れてくれたのは、青木氏の担当記者だからかもしれない。よそ者を時に温かく迎え、時に能面のようになる。どちらも出雲人なのだ。
参院選に向け、私は日常の政治取材に戻る。この半年、出雲を探訪しながら、気づくと自分の歩みも振り返っていた。学生時代に抱いた出雲への思いと、30歳の政治記者として出雲に戻った今の思い。保守は、壊すべきものではなくなった。だが、変化したのは私の意識であって出雲ではない。政権が交代しても変わらない、いや変化を見せない。それが出雲である。