月白の道

丸山豊『月白の道』創言社

初版は昭和45年であるが、私が落手したのは62年に出た増補版である。水上源蔵少将を巡る一連の有名な電報は、この本がそのみなもとだろう。著者(軍医中尉)は、水上少将の側に仕えていた人物だった。

副官に案内されて、かつては英国の領事館であったという司令部の庭園をS宇のかたちによぎってゆくと、バラの木のむこうにまえかがみした初老のひとがいる。そのやわらかそうなたなごころにおさまっているのは、うみおとされたばかりと見えるつややかな卵である。泥と糞をきれいにふきとったその卵に、日付けを書きこんでおられる。まなざしが柔和で物腰はおだやかで、どう見ても人のよいお百姓、それが閣下であった。部隊復帰の申告をすると、
「ゆっくりくつろぎなさい。軍隊というものは、軍医さんがあくびをしているかぎり安泰です」

着任早々、占拠地区の各部隊を、分哨のひとつひとつにいたるまでつぶさに巡視されたことは、まず全将兵の感動を呼んだ。実戦と演習を問わず、あやうく落伍しそうになった最後の一兵が陣営にかえりつくまで、営門のかげに長時間たちつくしたあとで、やっと御じぶんの武装を解かれるという人情に、心打たれぬものはなかった。
 「兵隊には、うまいものを食べさせてくださいよ」
 と、経理の将校に涙をながさんばかりにお願いなさるありがたさが、全部隊に波のようにひろがった。
 私は予備役の軍医なので、いくらか話題がゆたかということもあって、堀江屋副官のかわりに閣下のともをして、トウエツ郊外を遠乗りすることが多かった。なにかめずらしいものがあればそこで馬をとどめ、閣下が私に問われたり、私が閣下に尋ねtたりするのだが、草木虫魚の類から農事や習俗に及ぶ知識は、すべて閣下が私の先生であった。農家の庭の葉がくれの青い実を「あれが豆柿だ」と教えてくださったのも、廟の前の一対のコマ犬のオスとメスの区別法を教えてくださったのも閣下であった。

夜襲のたびにみごとな戦果をあげた龍の中隊長が、ある夜、雨をおかして状況の報告にきた。つまり、戦死の日がいよいよ迫ったのを覚悟して、閣下に最後のわかれを告げにきたのである。中隊長が壕の入り口へ着くと、閣下は腰をあげて、一度壕の外にでて、濡れるのをいとわずに公式の報告をきいたうえで、「さあさあ、壕に入りたまえ」とみすがら手をとってじぶんの部屋へ案内される。それからとっておきの清酒で、別れのさかずきをかわされるのだ。これで思いのこすことはないといったさわやかさで、中隊長は、雨のなかをまた火線へもどってゆく。そのうしろ姿を見送った閣下が、
「惜しいなあ、死なせたくないなあ」
と長大息なさる。こうした挿話なら、教限りない。しかし、学生にやさしい教師が、かならずしもりっぱな教師ではないように、閣下のあたたかい人情だけで善徳の人とは呼びたくない。そのころ、閣下の徳性は、ミイトキーナ守備の全軍につたわっていた。菊の将兵で閣下に一目お目にかかってから死にたいと、わざわさあいさつにくるものがくびすを継いだ。なぜ、みんなが心服したのか。私にはわかっているのだが、どうも表現がむずかしい。要するに、見せかけの徳のにおいがしないのである。誠という言葉がある。部下たちと、素裸の人間としてかかわり合おうとされる誠実が、声となり、まなざしになり、仕草になり、それこそ戦場の閣での何ものにもまさる光であることを、兵隊ひとりひとりの死を目前にした清澄な心がはっきり感じとるのである。閣下は、裸の精神を統べるりっぱな統率者であった。魂の司令官であった。

昭和19年の7月10日、第33軍司令官の本多中将から電報が届いた。

  一、軍ハ主カヲモッテ龍陵正面二攻勢ヲ企図シアリ。
  二、バーモ・ナンカン地区ノ防備未完ナリ。
  三、水上少将ハミイトキーナヲ死守スベシ

水上は次のように返電した。

  一、軍ノ命ヲ謹ンデ受領ス。
  二、守備隊ハ死力ヲツクシテミイトキーナヲ確保ス。

しかし側近には、このことはまだ極秘にしておくように言った。
軍から改めてだめ押しの電報がきた。それには「貴官ハミイトキーナ付近ニアリテ……死守スベシ」とあった。前回は「ミイトキーナ」であったものが、こんどはなぜ「ミイトキーナ付近」と変わっていたのであろうか。水上も首をかしげて「付近だな、まちがいないな」と、念をおした。
この頃の彼の心情は、側近の人々への言葉から推し量るしかない。

 ぽつんと漏らされた言葉、「勝つことのみを知って、負けるを知らぬ軍隊はきけんだよ。孫子も言ってるようにね」
 執行主計と私とふたりだけに、さりげない調子で申された言葉、「執行大尉と丸山中尉、私がいるかぎり決してふたりを死なせはしませんよ」
「なにをおっしゃるのですか」と私たちが反問したときには、もうそっぽをむいて、聞こえぬふりをしておられた。
 司令部付の五、六名の将校と当番兵がいるときに、「みんなの体は、それぞれがご両親のいつくしみをうけて育ちあがった貴重なもの、これを大切にとりあつかわぬ国はほろびます」

そして、これも今やよく知られた電報が来る。

  貴官ヲニ階級特進セシム。
 水上大将という栄光のうしろにある、さむざむとしたものを閣下は見ぬいておられた。閣下の心の底で、ある決断のオノがふり下された。「妙な香典がとどきましたね」と、にっこりされた。二日後に、また電報がとどいた。
  貴官ヲ以後車神ト称セシム。
 軍神の成立の手のうちが見えるというものである。閣下はこんども微苦笑された、 「へんな弔辞がとどきましたね」。名誉ですとか武人の本懐ですとかいう、しらじらしい言葉はなかった。私たちが信じてきたとおりの閣下であった。この閣下となら、おなじ場所、おなじ時刻に悔いなく死んでゆけると思った。なるべくかるい気持で死のうと思った。

8月3日、水上は拳銃で自決した。軍刀は傍らの樹木にさかさに立てかけられており、正面には図嚢が置かれ、その上に作戦命令を書く起案用紙が風で飛ばないように小石を文鎮がわりにして、広げられていた。

用紙には鉛筆がきで命令がしたためられ、書判をおしておられた。
  ミイトキーナ守備隊ノ残存シアル将兵ハ南方へ転進ヲ命ズ。

実は一連の”死守”電報を出していたのは辻政信であった。辻は人に、ノモンハンのときに大量の退却兵が出て困った。だがこのような電報を打っておけば、謹厳な水上少将なら、軍の真意を察して十分目的を達せられるだろうと語っている。辻は全員玉砕して欲しかったのだろう。しかし水上はこの電報を逆手に取り、自分の命を棄てて700余の兵隊を退却させた。辻は戦後、山梨を訪れた時、水上の母校であった日川高校の前で「閣下は私が殺したようなものです。実に申し訳ない」と頭を下げ、水上の生まれ故郷を指して深く頭を垂れ合掌していたという。しかし水上の遺骨を持って軍司令部までたどり着いた副官の堀江屋中尉には冷酷であった。中尉は辻から、何故水上閣下と共に死ななかったのかと罵られ、暴行さえ受けた。そして行けば必ず死ぬとわかっている戦場へ派遣され、戦死した。