将軍たちの黄昏

松川敏胤の大正年間の日誌を読むと、将軍たちが次々予備役に入れられる様が、これでもかと記されている。

工兵監だった落合豊三郎は、浅田信興教育総監によって師団長が約束されていた。しかし奥保鞏元帥と長谷川好道の反対にあい、東京湾要塞司令官という閑職に回されてしまった。落合は日露戦争で奥の参謀長をしていたが、得利寺の戦いで彼の不興を買っていた。また長谷川とはやはり日露戦争中、朝鮮で衝突していた。というのも、落合は第二軍参謀長を更迭され、韓国駐剳軍の参謀長に就いたが、その軍司令官が、近衛師団長から”栄転”してきた長谷川だった。また浅田の後任総監の上原勇作は、落合と同期同兵科だったが、工兵繰典の改正時に落合と意見が合わないことがあったので、敢えてこの人事に反対しなかった。怒った落合は、早々に辞表を提出し、それでそのまま待命にされてしまった。

大谷喜久蔵はかつて長谷川好道に台湾総督を約束されていたが、大浦兼武の反対で駄目になった。あっさり約束を反故にした長谷川を「参謀総長の価値なし」と松川は断じている。また彼は、「これで大谷は青島に葬られた」と書いたが、しかし大谷はその後、シベリア出兵で再び軍司令官となり、教育総監にもなった。ちなみに大谷の代わりに台湾総督になったのは、温厚な人柄の安東貞美だった。

さて青島の軍司令官を、大谷に奪われたのが神尾光臣だ。この人は女癖が悪かったらしく、青島守備軍司令官を解かれたのもそのせいらしい。松川は彼と仲が良かったそうだが、彼のスキャンダルの詳細をわざわざ日誌に書き留めている。ちなみに彼の娘は有島武郎に嫁いでいたが、有島が心中したときには、もう亡くなっていたようだ。

本郷房太郎仁田原重行の予備役入りは、心中ではなく相討ちであった。仁田原によれば、かつて彼自身の人事を巡って、本郷、井口(省吾)と行き違いになり、上原勇作参謀総長一戸兵衛教育総監田中義一陸軍大臣を交えた6人で、葡萄酒をかたむけ手打ちを行ったが、それが再燃したのだという。本郷の所へは、同期の上原が訪ねて、辞表を出すように言ったが、本郷は言を左右してこれを出さず。しかし陸相が、「辞表を出さないなら、陸相の権限で処置する」と言うに至り、遂に辞表をだした。最後の挨拶は相当未練がましかったらしい。

そして松川自身も、大正11年待命になる。待命の日々を送る彼の目に、大庭二郎教育総監に、河合操参謀総長にというニュースが飛び込む。「河合果たして如何なる戦略戦術の持ち主ぞ」「大庭は旅順攻撃の参謀副長として如何なる功績をあげたか」長閥の専横、いよいよ甚だしいが、彼にはどうすることもできない。