勅令三二四号

これも過去記事発掘なのだが、昨晩ふと思い出した。
近衛読書中隊 鵜沢総明

しかし、朝鮮に関する制令はすべて法律案によらず緊急勅令で律しようとする勅令三二四号には烈火のごとく怒った。原との対談ではこれを千古の悪法と断じ、六法全書を机に叩きつけて議論したため、六法の綴じが割れてばらばらになったという。

勅令三二四号というのは以下の通り。
朝鮮ニ施行スヘキ法令ニ關スル件 - Wikisource

勅令第三百二十四號

第一條 朝鮮ニ於テハ法律ヲ要スル事項ハ朝鮮總督ノ命令ヲ以テ之ヲ規定スルコトヲ得

第二條 前條ノ命令ハ內閣總理大臣ヲ經テ勅裁ヲ請フヘシ

第三條 臨時緊急ヲ要スル場合ニ於テ朝鮮總督ハ直ニ第一條ノ命令ヲ發スルコトヲ得

前項ノ命令ハ發布後直ニ勅裁ヲ請フヘシ若勅裁ヲ得サルトキハ朝鮮總督ハ直ニ其ノ命令ノ將來ニ向テ效力ナキコトヲ公布スヘシ

第四條 法律ノ全部又ハ一部ヲ朝鮮ニ施行スルヲ要スルモノハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム

第五條 第一條ノ命令ハ第四條ニ依リ朝鮮ニ施行シタル法律及特ニ朝鮮ニ施行スル目的ヲ以テ制定シタル法律及勅令ニ違背スルコトヲ得ス

第六條 第一條ノ命令ハ制令ト稱ス

附則

本法ハ公布ノ日ヨリ之ヲ施行ス

改めて石川正俊の『鵜沢総明』から引用する。

日本の強力な政治的、軍事的、経済的、社会的進出は当然に朝鮮人の反撥、反抗を呼び起した。併合前から、日本の行動に反撥する動きは少くなかったが、旧両班層独立協会の流れをくむ知識分子、失業軍人らが、あるいは連絡し、あるいは別個に、日韓併合後も引続き暴動を起していた。会員百万と呼号した宋兼峻、李容九等の「一進会」による親日派の動きもあったが、大多数の朝鮮人は日本の支配を喜ばなかった。併合後も、平安北道咸鏡北道慶尚南道をのぞく全半島で、すでに解散していた朝鮮人軍隊が暴動を起した。京畿、江原、忠清の三道ではとくに激烈をきわめた。
こうした空気のなかで、桂内閣と情意投合していた政友会は、四十四年の早春、桂の意を汲んで、いわゆる朝鮮政令問題を党議として決定することになった。勅令三二四号事件と称するものである。この問題の要点は、朝鮮に関する制令はすべて法律案によらず、緊急勅令で律しようとする点にある。言論、集会、結社の自由はもとより、生命財産の安全、保障すら勅令一本で処理しようというねらいである。朝鮮問題多事のとき、法律案をいちいち議会に上堤して審議していては、万一の急に応ずることができないという理由からである。当時鵜沢は陣笠も陣笠、四十二年五月の選挙ではじめて議会に出てきた新人であるが、烈火のごとく憤った。朝鮮人権の根本に関する問題が、一片の便宜論で片付けられては、どこに政治の大道がある。かれは脱党を賭し、党議をしりぞけ、一人立って反対し抜いて、ついに原案を撤回せしめた。原敬との対談中、千古の悪法ときめつけ、六法全書を机上にたたきつけては激論したため、六法全書の綴じがこわれてバラバラになってしまった。新米のくせに党議に反対するものは除外してしまえと院外団が殺気立つ。まさに風雨楼にみつという一場面であった。朝鮮人権の伸長、確立のための鵜沢の断乎たる戦いである。

まず明治44年早春ということは、時期的に、勅令三二四号ではなく、こちらの勅令三〇号*1ではないかと思うが、素人なのでわからない。また文中で、原案を撤回せしめたとあるが、実際に公布されたものと、原案とにどれくらい差があるのか興味のあるところだ。