井上靖のこと

”この夏や汗も血もたゞに弁へず”
あすなろ物語で鮎太の友人が出征前に残していた句の原型がこれ。この句の作者で、井上が敬愛した高安敬義も、物語の中の金子と同じく、支那事変で戦死した。
終戦の8月15日、大阪毎日新聞の社会面のトップ記事を書いたのは井上だった。誰もがどう書くべきか扱いかねて敬遠したため、お鉢が回ってきたもののようである。それがこれ。

「十五日正午、それは、われわれが否三千年の歴史がはじめて聞く思ひの『君が代』の奏でだつた。その荘厳な『君が代』の響の音が消えてからも、ラジオの前に直立不動、頭を垂れた人々は二刻、三刻、微動だにしなかつた。生れて初めて拝した玉の御声はいつまでも耳にあつた。忝なさ、尊さに身内は深い静けさに包まれ、たれ一人毛筋一本動かすことはできなかつた。幾刻か過ぎ、人人の眼から次第に涙がにじみあふれ肩が細く揺れはじめてきた。本土決戦の日、大君に捧げまつる筈の、数ならぬ身であつた。畏くも、陛下にはその数ならぬわれら臣下の身の上に御心をかけさせられ、大東亜戦争終結詔書をいま下し給はれたのであつた。
 『帝国ノ受クベキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪へ難キヲ堪へ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス』『朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ言倚シ常ニ爾臣民ト共二在リ』
 玉音は幾度も身内に聞え身内に消えた。幾度も幾度も−−勿体なかつた。申訳なかつた。事茲に到らしめた罪は悉くわれとわが身にあるはずであつた。限りない今日までの日の反省は五体を引裂き地にひれ伏したい思ひでいつぱいにした。いまや声なくむせび泣いてゐる周囲の総ての人々も同じ思ひであつたらう。日本歴史未曾有のきびしい一点にわれわれはまぎれもなく二本の足で立つてはゐたが、それすらも押し包む皇恩の偉大さ!すべての思念はただ勿体なさに一途に融け込んでゆくのみであった。
 詔書を拝し終るとわれわれの職場、毎日新聞社でも社員会議が二階会議室で聞かれた。下田主幹が壇上に立って『詔書の御趣旨を奉戴するところに臣民として進むべきただ一本の大道がある』と社員の今日から進むべき道を説けば、上原主筆続いて『職場を離れず己が任務に邁進することのみが、アッツ島の、サイパンの、沖縄の英霊に応へる道である』とじゆんじゆんと声涙具に下る訓示を与へ、最後に鹿倉専務また社員のこれまでの『闘ひ抜く決意』を新しい日本の建設に向けることを要請した。われわれの進むべき道は三幹部の訓示をまつまでもなくすでに御詔勅を拝した瞬間から明らかであった。
一億団結して己が職場を守り、皇国興建へ新発足すること、これが日本臣民の道である。われわれは今日も明日も筆をとる!」

福田宏年『井上靖評伝覚』より