奇をてらわず(四)

伊藤智永『奇をてらわず 陸軍省高級副官 美山要蔵の昭和』講談社

昭和19年春、参本編制動員課長だった美山は、”高級”参謀次長の後宮淳に呼ばれて、対戦車戦法に関する研究を命じられた。研究結果は対戦車戦法研究会で美山が発表することになっていた。彼は研究会の前日に、自らの案を予め後宮に説明した。後宮も彼の研究成果に同意を与えた。翌日の研究会で美山は1時間にわたり丁寧に自分の研究を発表した。後宮が「諸官の意見はどうか」と一同に尋ねたところ、軍事課長の西浦進が静かに次のようなことを言った。

「こんないろいろな兵器を使いこなすのは、複雑すぎて実際上はなかなか困難なのではないか」

西浦は見かけどおりのシャープな頭脳を持ったThe官僚といった人物だが、器は存外こまい。回想録でも人事局に対する恨みばかり書いてる(勿論それが全然不当な批判というわけでは無いが)。ところでこの西浦の発言を受け、後宮が豹変した。昨日美山に内諾を与えたばかりなのに。

「然り。全然同意。本案は対戦車戦法としてはまったく不徹底で問題にならん。そんな簡単な方法で戦車がやれると思うか。ここはもはや兵が対戦車地雷を抱いて敵の真っ只中に飛び込む『肉攻』のみで行く他ない。即ち…」と言いながら、やおら席を立ち、白墨を握った手を勢いよく振り上げて、黒板に自ら「肉弾特攻」作戦図を描きだそうとした。

これを聞いた美山は憤怒し、

「そんな簡単なことで勝てるなら、この戦争はとっくに勝っている!」

と怒鳴った。美山は大佐、後宮は大将である。しかし一座は美山の気迫に押されて粛然としている。作戦課長服部卓四郎がとりなし、その場は散会となったが、美山は南方総軍への出張を命じられた。そして彼がマニラ、緬甸と巡って、自らの戦法の説明をしているところへ、彼を南方総軍高級参謀へ補するという電報が飛んできた。この人事について南方軍総参謀長だった飯村穣は、『現代の防衛と政略』で次のように書いている。

 さて私は、この時代に南方軍の作戦地域を視察中の整備課長美山要蔵大佐が、視察を終ってマニラに帰って来たのをつかまえて、南方軍の作戦課長に任命して頂いた。美山大佐は、私が陸大の幹事、校長当時の学生で、これはと思って目をつけていた学生であった。そこで私は、私の関東軍参謀長になった時もこうだったといって、美山を内地に帰らせずに、そのままマニラに引きとめた。当時南方軍の作戦課長であり、陸大での私の学生であり、総力戦研究所長当時の部下の教官であり、南方軍総参謀長として赴任する時も同時に作戦課長に任命されて同行し、特に親しみの深かった堀場一雄大佐が航空関係の参謀副長坂口中将と犬猿の仲となり、どうにも始末がつかなくなったので、ケンカ両成敗にするわけにも行かず、まず下級者の堀場を支那総軍か航空軍かの参謀に転任させたのである(その後坂口中将は病を理由にして内地に帰り、予備役になった)。そこで私は、美山を堀場のアト釜に据えたのである。

文中の坂口というのは阪口芳太郎中将のこと。堀場、服部、西浦で俗に34期三羽烏といった。これは半分は真実、半分は飯村一流の優しさだろう。美山は当然、先の研究会で後宮を怒鳴りつけたことに対する報復人事と見た。

さて美山は人物評をよくした。当然後宮についても書いている。

「非常に威張る単純な男。東條大将は同期生の相談役が居らんので、是非、後宮を大将にしたかった。しかし、後宮支那総軍〔派遣軍]の参謀総長としても大変評判が悪い。元来、総参謀長ともあるものが外地で女を抱くなどといふ事はけしからん事である。そこの将校と感情の疎隔を来す。後宮は特に行儀が悪かった。評判は悪化する許りで、そこで東條は早く内地に連れ帰らんと大将になれんと思い、富永を南京に派遣し、中部軍司令官に栄転方を伝えた。評判を落とした奴を大将に拾い上げるが如きは、人事の混濁を来すこと甚しい」

またシベリア抑留時代についても、帰還者からの情報を元に次のように書いている。

ハバロフスクに収容された時、皆軍歴や日本軍の実情を調べられたが、誰もあまり言わず、言わないと営倉や刑務所に入れられたり、減食で責められたりしたようである。秦〔彦三郎・関東軍〕総参謀長、草地〔貞吾〕関東軍参謀、牧〔達夫〕第四軍参謀、木下〔秀明・機動第一〕旅団長等は、よく節を枉げずに沈黙を通したようである。然るに後宮大将は進んで先方から問題を貰って来て、同囚の部下に聞いたり書いて貰ったりして居ったようである。東條人事の罪は軽くない」

ついでに東條の女房役富永恭次の人物評も載せておく。

「悍馬である。駐独中、対ソ謀略をやって有名な人物である。〔東條は〕之を次官に抜擢して各局長を押さへさせ、富永は威圧した。レイテ決戦前、比島方面の航空決戦の主戦力なる第四航空軍の司令官を買って出た。これは無理である。死地に臨む特攻隊を統率する指揮官としては力量不足である」