遷都計画

「日本は朝鮮人を満州に追い出して韓半島に住もうとした」(1) | Joongang Ilbo | 中央日報

金氏によると、日本は1943年の秘密国土計画「中央計画素案」で、京城府(ソウル)南の郊外、日本の岡山と福岡の3カ所を大東亜圏の首都移転候補地に決めた、としている。 日本人は韓半島満州に、朝鮮人満州に移住させる計画も立てた。金氏は「日本の元官吏らとの面談で、首都移転候補地の京城府郊外は韓国外国語大竜仁(ヨンイン)キャンパス辺りであることを確認した」と述べた。

−−日帝はなぜ首都を移転しようとしたのか。

「ソウルは当時、日帝の支配圏の中心だったうえ、歴史的に地震のないところだったからだ。他の2つの候補地は日本本土だったが、彼らの心はすでにソウル付近に決まっていた。秘密計画を見ると、日本人800万人と朝鮮人200万人を満州に移住させ、日本人200万人を韓半島に移住させるという内容の人口配分計画が出てくるが、これは計画にすぎず、実行段階では日本人を満州の代わりに朝鮮に送り、はるかに多くの朝鮮人満州に送り出した。寒い満州地震が頻発する日本よりも韓半島は住みやすい地だ。 結局、韓半島の開発はすべて自分たちが住むために行ったというのが私の結論だ。旧建設部道路課長を務めたイ・ヒョンギョン氏が光復(解放)直後、道路課のキャビネットで竜仁一帯の測量図面を見たと話していた」

これは満更馬鹿にした話でもない。関東大震災の後、今村均(当時参謀本部員)は参謀次長の武藤信義*1に呼ばれて次のように言われた。

学者の説によると、東京附近は火山地帯に位置し、ことに地盤上、毎七十年目ぐらいに大震災が見舞うとのことだ。万一戦時中こんなことがあったなら、戦争どころではなくなる。又戦時の防空見地から考えても、こんな平坦な土地では、その施設ができない。東京復興ということになれば、莫大の経費を必要とする。それなら思い切って、適当な土地に遷都の上、理想の帝都を経営し、同時に防空施設を行うべきであるというのが、河合総長*2と自分の考えだ。ついてはその位置、施設上防空上着意すべき要点等を含んだ遷都意見を起案したまえ。(後略)」

今村は研究の結果次のような趣旨の一文を綴って提出した。

「東京は震災及び防空上、絶対に帝都としては不適当であり、次のいずれかに遷都すべきものと思う。第一は京城の南、竜山。次は播州加古川流域、万已むを得ない場合は、宮城と政府機関とを、八王子附近に移す。第一のものは、繁殖してやまない日本民族は、必然に大陸にそのはけ口を求めなければならない。いかに声を大にし、又は兵をすすめて、大陸進出をさけんでみても、大八洲に執着を断ち切れん民衆は、ついては行かない。一度帝都、即ち政治機関をそちらに移せば、だまっていても民族は、平和裏に大陸に進出する。京城はせますぎる。竜山と漢江をはさんだ永登浦の平地と、その東の丘陵地帯とを使用すれば、水の便もよく、又防空施設も完全にやり得る。気候は無論東京よりもよい。
加古川平地は、歴史上、大きな地震に見舞われていない。この川の水は、量も十分質もよい。商工地帯を阪神地方におき、皇居と政府機関と、教育施設だけをここに移し、ワシントンにならい設計する。ここの丘陵の起伏は、理想的に防空施設を実行し得る。
皇居と機関とを八王子に移すのは、主として、防空の見地によるもので、窮余の糊塗策である」

結局、遷都の噂を聞きつけた人心が動揺し、逆に不遷都の詔書を出さなくてはいけないような事態になったため、この案は廃棄となった。