藤沢秀行さんを悼む

朝日新聞5月16日朝刊文化欄 秋山賢司(春秋子)

ある棋士との約束の時間に遅れそうになり、あわてて日本棋院のエレベーターに飛び乗ろうとしたところ、「お客さんを先に乗せて差しあげなさい」とたしなめられた。ファンから棋譜が送られると、時間をかけて調べ、(競輪競馬予想用の)赤と青のエンピツで講評を書き入れる。そこまでしなくてもというと、「3歳の童子といえども導師たり。アマチュアの碁だって勉強になるんだ」。こんなことは枚挙にいとまがない。
盤上のすごさや功績は、高尾紳路らの門下生によって語られるだろう。ここでは名高い研究会や合宿に触れておく。林海蜂、大竹英雄から井山裕太まで、ほとんどの一流棋士が秀行研究会や合宿で学んだ。
教え子に名人をとられ、 「秀行さんはバカなことをした」といわれても、「そんなケツの穴の小さいことでどうする」と意に介さなかった。日本だけではない。早碁で鍛えた一人が少年時代の者薫鉉である。棋聖位連覇中だったか、酔っぱらって、「クンゲンに会いたい」とつぶやいたと思ったら、翌日はソウルに飛んだ。師弟は三日三晩ホテルに閉じこもり、ひたすら碁を並べた。「進歩していなかったら殴ってやるつもりだった。うれしかったねえ。大変な勉強をしたと分かった。いずれクンゲンが世界一になるだろうよ」。この予言は的中した。者はその後たびたび世界戦で優勝、韓国躍進の原動力となった。
中国へは28年前から毎年のように若手を連れて訪問し、これが10回以上も続いた。中国側の熱気はすさまじかったという。対抗戦が終わると、ホテル側の制止を振り切り、大挙して押しかける。藤沢講評を深夜まで拝聴するためだ。この中から聶衡平、馬暁春が育っていった。彼らは「藤沢先生こそ、中国碁界の大恩人です」と□をそろえる。
一度だけ、激怒した場面にぶつかった。日中スーパー囲碁で日本が連敗したとき、ある先輩に「秀行さん、あんたが中国を強くしたんだ」と面と向かっていわれた。藤沢への称賛が含まれていると思ったのだが、そうは受けとらなかった。「日本が負けたのはおれの責任といわんばかり。これほど腹の立ったことはない。負けたら若手を鍛えて、やり返せばいい。それをしないで何をいうか」
4月初め、病院に見舞ったときは弱々しく、ことばもほとんど聞きとれなかった。しかしその1週後、筆と墨を用意させ、「強烈な努力」と揮毫した。書家も驚く力強さだった。この絶筆こそ日本碁界への遺言だろう。秀行先生、安らかにお眠りください。