収容所長たち

菅辰次中佐(19期)、広島出身。少佐のときに予備役となり、アメリカに滞在。二度目の召集でボルネオの俘虜収容所長となる。俘虜のなかに『風下の国』の著者アグネス・キース女史とその夫、子供がいた。ボルネオ赴任前にこの本を熟読していた菅は驚き、女史に紙と鉛筆を与え、収容所の出来事や感想を書いてくれるように頼んだ。喜んだ女史は、提出用の他に、収容所の日本人に対する赤裸々な感想を綴った自分用の手記もひそかに書き溜めた。しかしその中でも、菅だけは、典型的な日本武士道にかなった人物として描かれていた。戦局の悪化に伴い、俘虜の処遇についてもいろいろな討議がなされた。軍司令部は収容所にも重機の一挺ぐらい必要だろうといってきたが、菅は受け取りを拒否した。東京に於ける収容所長会議でも「如何なる場合があるとも、俘虜を敵手に委してはならぬ」という当局に対し、彼は「私は、俘虜を殺す相談にきたのではない」と冷然として言い放ったという。

敗戦と同時に菅は戦犯としてラブアン島に護送された。連合軍の計らいで、台湾人の当番兵が付き添っていた。ラブアン島に着いた菅を、原住民の石礫が襲った。携行したトランクで防いだが防ぎきれず、血達磨となった。この惨めな仕打ちを受けて菅は、自決を決意した。しかし身に寸鉄も帯びておらず、辛うじて食事用の丸いナイフがあるのみであった。彼はこのナイフを頚動脈につきたて何とかこれを切ろうとしたが果たさなかった。そこで水筒に砂を詰め、当番兵を呼んで、これで自分を殴るように命じた。菅の人柄を愛し付いて来ていた当番兵は、ためらってなかなか撃てない。菅はこれを大喝して励まし、彼の心中を察した当番兵も意を決して、菅の後頭部に一撃を加えた。しかし菅は一時的に昏倒しただけで、死に切れなかった。息を吹き返した菅は、もう一度ナイフを首に当て、これを水筒で撃つようにいった。当番兵がナイフの柄頭を強く水筒で撃つと、ナイフは深く突き刺さり、ようやく致命傷となった。享年59歳。解放されたキース女史は、この収容所での体験を元に、『三人は帰った』という本を書いた。これは映画化もされ、菅は早川雪洲が演じた。

江本茂夫中佐(23期)、徳島出身。中尉のときに東京外国語学校に依託学生として入学。英語のほかにドイツ語、フランス語もできた。中佐で予備役となると、横浜専門学校の英語主任教授となった。翻訳書にリデル・ハートの『英帝国崩壊の真因』がある。召集されて品川停車場司令官をしていたが、昭和19年3月に函館俘虜収容所長となる。前任の畠山大佐はごく平凡な所長で、俘虜の虐待を奨励するようなこともなかったが、かといって看守らの体罰を積極的に取り締まる風でもなかった。隷下の室蘭第一分所長平手嘉一大尉は大阪外語学校のフランス語科を卒業した人で、英語も堪能であった。彼は俘虜の待遇に気を使い、体罰をやめるように何度も看守たちを集めて訓辞したが、畠山時代の収容所の空気はむしろ平手に不利で、兵の中には「彼は外人の混血児ではないか」というような者さえいた。この時期に起きた俘虜の死亡事件の責任を負って、平手はBC級戦犯として絞首刑となる。この判決には当時の俘虜の間からも、不当に重いものとして助命嘆願の手紙が来たという。

江本は元々日本軍の俘虜の待遇について不満を持っており、収容所長には志願してなったという。着任すると早速彼は、看守のみならず俘虜を使役する工場の従業員に至るまでに、体罰の禁止を申し渡した。また俘虜への給与も改善し、持ち前の英語力で彼等と積極的にコミュニケーションをとった。横浜専門学校時代、日本一の英語教師といわれた人だけに、英国人俘虜の中には、かれのことを「オックスフォードのプロフェッサー」と呼ぶ人もいた。当時の英国人俘虜は皆深く日本を恨んでいる。しかし江本のことを悪く言う人は一人もいないという。昭和41年没。