六列車でいこう

文藝春秋四月号の座談会で、秦郁彦教授が、日露戦争前に田中義一がロシアの輸送能力を過小に見積もったという話をされておられた。有名な話だからご存知の方も多いと思うが、一応『評伝田中義一』より、次のエピソードを紹介しておく。文中の"私"は参謀本部の楠山大尉(後の浜面中将)である。

≪明治三十六年一二月の末であった。いよいよ日露両国の国交断絶が切迫し、国内の輿論も大方開戦に傾いた時である。近いうちに御前会議があって、廟議を決せらるるという少し前であったと思う。当時私は大尉で、シベリヤ鉄道の輸送力を調査していた。
ある日、田中少佐は私をよんで、"近いうちに御前会議があるから、その前に材料を準備せねばならぬので、ロシアの鉄道輸送を調査せよ"と命ぜられた。そこで私はあらゆる材料を収集調査して、ロシアの輸送力は、一日に八列車、即ち三時間毎に一列車を輸送し得るという結論に達した。即ち八列車の中で、約二列車は、兵器弾薬等の軍需品輸送に充当せられ、軍隊輸送のためには、一日六列車ということを確め得たのである。
軍隊輸送六列車ということになれば、わが船舶輸送力と、ほぼ匹敵するのであるから、当時ロシアは、すでに約六個師の兵力を満州に派遣していたので、彼我の輸送力がほぼ同一であるとすれば、敵には六個師の八ンデキャップがついていることになり、露軍は終始われより優勢であって、わが軍はいつも寡兵で以て戦わねばならぬという結論になる。是において私がこの調査を提出すると、田中少佐は、
「これはいかぬ。これではいつまで経過してもわが方は劣勢ということになる。これはなんとかならぬか」
「どうも敵の輸送力は、私共にはなんとも致し方がない」
「君は開戦を主張するのか、それとも非戦論者であるのか」
「私はもちろん開戦を主張する」
「それなら、これではいかぬ、直せ」
「紙の上で直すことは容易であるが、敵の輸送力は直すことは出来ませぬ」
「よく考えてみろ、伊藤さんや山県さんを始め、大山さんとても、この計算では、開戦論に絶対に同意はしないよ。それだから、なんとしても、これを直さねばならぬ」
「直すことは造作もないことですが、これは御前会議に提出の材料になるのではないですか」
「むろん、そうだ」
「それでは困ります。そういうことも、場合によっては已むをえないと思いますが、陛下に対し奉り虚偽を申し上げるような感じがする。私は今迄誠実を守るべき教育を受けてきた。嘘を言うことの教育は受けていない。いわんや、陛下に対し奉っては、なおさらのことであります」
「陛下をおだましすることになると言われては、一言もない。併し、ものは考えようではないか。例えば、尊貴の方が御病気の折に、もはや駄目と思っても、医者は駄目といわぬものだ。近いうちに直ると申し上げる。それはたとえ一時の気やすめでも、いうのがいいのだ。それによって気力が出れば、また病気が直ることもある。君も知っているだろう、あの大石良雄の主君ににがい薬を飲ませたときのことを・・・・。それでも不忠だと思うか」
「それは不忠と思いませぬ」
「それからまた、彼のナポレオンの副官が、情況報告を偽って、ナポレオンの決心を促し、それがために戦いに勝ったということだ。だから嘘も方便だ。廟議の開戦論に決定さすには、嘘もやむを得ないではないか。八列車では駄目だ、六列車に直せ。そうすれば二列車が軍需品で、四列車が軍隊輸送になるのだ」
熱心に説き去り説き来って田中少佐は、八列車を六列車に改竄すべく強要して譲らなかったのである。
「理屈はそうかもわからぬけれども、そんな間違った材料を基礎として開戦をした暁に勝てば宜しいが、万一負けた場合はどうしますか」
私もやや気色ばんで反問した。
「なに、負ける? 負けはせぬ」
「負けないと言うのは、単に貴官の判断であって、もし予想が外れて負けた場合には、貴官と私が腹を切っても、追いつくことではないでしょう」
「そんな弱音を吐くな、決して負けはせんのだ」
「決して負けないということは、如何なる論拠があるのですか」
「論拠は露国の実際を知っているという事だ。君は、現在わが国で、ロシア通は誰だと思うか」
「それは、最近露国からかえられた貴官でしょう」
「そうだろう。俺以上のロシア通がある筈はない。ロシア通の第一人者であると自他共に許す田中が、決して負けないと言うのだ、それを信用しないで、誰の意見を信用するのだ」
「貴官を信用しないというのではないが、このことは、私としては十分考えなければならぬ。どうも決心がつかない」
「決心がつかねば、俺のいう通りにせよ」
田中少佐は、なんとしても六列車説を固持して聞かなかった。
「ひと晩熟考しますから……、明朝までに決心して、お返事します」
「それもよかろう、しかし結局は、六列車にするんだぞ」
時計を見ると午後二時であった。
「今日はこれで失礼して、宅に帰らせて頂きます」
「よろしい。帰れ。そしてよく考えろ。考えた結果、六列車ということに決心して、明朝出てこい」
そこで私は、早々宅に帰り、夕食も食わないで、独りじっと坐って、沈思黙考したけれども格別名案もうかばない。
頭も痛くなる。目眩さえ感じるようになって、いかんともすべなく、呆然としていたが、夜もふけて一時頃になったとき、ふと思いついたのは、かかる場合に処する道は、神様に御頼みするより外にはない、神意によって決する外はないということであった。かく決心して木枯らし吹きすさぶ寒い夜であったが、井戸端で水垢離をとり、そして皇大神宮に、精神をこめて祈願した。かくしてマッチ箱二個を取り出し、一方にはマッチを六本入れ、他の一方には八本入れて、電灯を消し、手拭で目かくしをして、マッチ箱を投げ、更に数回キリキリ舞をして最初に模索したマッチ箱のマッチが六本ならば六列車、八本ならば八列車と決定することにして、暗黒の部屋をはい廻り、ようやくにして一つのマッチ箱を探りあてたので、どうか六本の方であればよいがと、一心に念じて開けて見ると、運よく六本であったので、押し戴いて、心から神様に感謝し、六列車と決心した。これは、田中少佐や楠山大尉が決定したのではなく、天照大神様が決定して下さったのであるから、もはや寸毫も疑惑を差しはさむべきではないと、私は決心したのである。かくして翌朝早く決心すると、田中少佐は私を待ち受けて、
「決心はどうだ」
と尋ねられたので、私は元気よく、
「六列車と決定しました」
と答えると、田中少佐は私の手を握りしめて、
「よし、君はよく決心してくれた」
といって、喜ばれた。
「いや、私が決定したのではない。神様が決定して下さったのです」
「それは、どういうわけか」
そこで、私は帰宅後の経過を仔細にのべた。
「そうか、神様が六列車と決定して下さったのか、よし、もう大丈夫だ。そうだとすれば、誰がなんと言っても、心配はないわけであるが、大山さんは数理的に鋭いところがあるから、あるいは立入って質問せられるかもわからんので、大事な場合であるので、念には念を入れて、或いは列車の間隔を広くしてもよく、あるいは汽車の速力をゆるめても構わぬから、質問に対して、答弁のできるだけの材料を、用意しておいてくれ」
「承知しました」
と、答えて、私は六列車の基礎をつくった。会議後聞いたのであるが、大山元帥は一言も質問しないで、そのまま通過させられたそうである。そこで田中少佐は、
「おい、うまくいったぞ。大山さんも同意された。本当に、神様が決定して下さったのだから、戦争は必勝疑いなしだ」
かくして、いよいよ開戦になったが、遼陽会戦の前後には、停車場間に待避線を設けるなど、ひたすら、輸送力の増加に努めた結果、支線は八列車、ないし十列車を輸送したのである。そこで参謀本部の計画が杜撰だといって非難を受けたけれども、そのとき私はすでに参謀本部にいないで、野戦軍の師団参謀に転じて居たので、攻撃の矢面には立たなくてすんだのであるが・・・・。
最初、私が八列車と報告したのは、よほど条件を悪くした計算であるから、少しおおまかに計算したらば、十列車くらいになったであろうと思う。しかるにそれをさらに、六列車にせよといって、いやがる私を無理に押えつけた田中少佐の胸中は、非常に苦しかったと思うのである。必ず勝つと、強いことは申されても、露軍の実力を知って居られるだけ、私以上に心配されたのであろう。当時もしも開戦と決しないで、徒らに遷延自重したならば、満州における露軍の勢力は、いよいよ猖獗となり、其の侵略は韓国に及び終に我国の独立をも、脅威され、実に国家のため由々しき一大事であるから、田中少佐は一身を犠牲にして、廟議を開戦に決定せしむべく、努力されたのである。万一の場合は、勿論割腹して其の責に任ずるという、悲壮なる覚悟がなかったならば、到底斯の如きことはできなかったのであるし、また割腹しないですむ自信を持っていられたのである。
戦後私が、駐在武官としてロシアに赴いたとき、本野一郎公使は、
参謀本部の調査は、ずいぶん杜撰なものだね。一日に六列車という計算は、どうしてできたのだ。公使館のものでさえ、もっと正確な計算をしたのである。然るになんぞや、本職の軍人がかくの如き杜撰な計算をするというのことは言語道断ではないか」
と、舌鋒鋭く冷評せられた。
「六列車という計算はいかにも杜撰であったかも知れませぬ。しかし、器械が計算するなら間違いはないが、人間が計算をすると、そうもいかぬでしよう。人間には意思がある。開戦論者が計算をすれば、六列車であるが、もしも非戦論者が計算をすれば、十列車になるか、あるいは十五列車になるかもわからぬ。それ故に、いちがいに杜撰と非難されることもできますまい」
「なるほど、六列車というのは、開戦論者の算盤であったのか。それでわかった。田中の仕事じゃなァ」といって、本野公使も談笑の間に、当時の事情を諒解された。
日露戦争は、わが国運の飛躍的興隆の一大転機であったことは、説明するまでもないのであるが、私は当時を回顧して、田中大将−当時の田中少佐の達見と堅き決心とに対して、今さらながらまことに驚嘆にたえないのであってその偉大なる風格を、忘れることはできないのである≫