高橋太郎少尉の遺稿

引越しのため本は殆どダンボールに詰めていたけど、これだけは今写経しておきたくて取り出した。二・二六事件の蹶起将校の一人高橋太郎歩兵少尉の死の10日前の日記。余りにも余りにも有名な文章であるが。

「姉は……」ぽつりゝ家庭の事情について物語つて居た彼は、此処ではたと口をつぐんだ、そしてちらつと自分の顔を見上げたが、直に伏せてしまつた、見上げたとき彼の眼には一ぱい涙がたまつて居た、固く膝の上に握られた両こぶしの上には、二つ三つの涙が光つて居る
 もうよい、これ以上聞く必要はない、暗然拱手歎息、初年兵身上調査に繰返される情景
 世俗と断つた台上五年の武窓生活、この純情そのものの青年に、実社会の荒波は、余りに深刻だつた
 育くまれた国体観と社会の実相との大矛盾、疑惑、煩悶、初年兵教育にたづさはる青年将校の胸には、かうした煩悶が絶えず繰返されて行く、而もこの矛盾は愈々深刻化して行く、かうして彼等の腸は九回し、眼は義憤の涙に光るのだ。共に国家の現状に泣いた可憐な兵は今、北満第一線に重任にいそしんで居ることだらう、雨降る夜半、只彼等の幸を祈る
 食ふや食はずの家族を後に、国防の第一線に命を致すつはもの、その心中は如何ばかりか、この心情に泣く人幾人かある、この人々に注ぐ涙があつたならば、国家の現状をこのままにしては置けない筈だ、殊に為政の重職に立つ人は
 国防の第一線、日夜生死の境にありながら戦友の金を盗つて故郷の母に送つた兵がある、之を発見した上官は唯彼を抱いて声を挙げて泣いたと云ふ
 神は人をやすくするを本誓とす、天下の万民は皆神物なり、赤子万民を苦むる輩は是れ神の敵なり、許すべからず