風成の人

坂本龍彦著『風成の人 宇都宮徳馬の歳月』 岩波書店

宇都宮太郎の長男徳馬の生前に出た評伝(?)。東京府立一中から陸軍幼年学校予科に進んだが、幼年学校卒業後、陸士ではなく旧制水戸高校へ進んだ。関東大震災での朝鮮人虐殺や大杉栄の殺害に強い衝撃を受けたからだという。そのとき既に父太郎は病死していた。

徳馬が東京府立一中に入学したとき、太郎はひどく喜び、初めて銀座に連れて行ってくれた。

だがカフェーライオンをレストランと間違えて入り込み、女給のいる薄暗い席で、苦虫をかみつぶしたような顔をして、洋食をご馳走してくれた、という。

徳馬の府立一中合格は、太郎が三・一事件の始末に苦慮していた時期だったが、日記には「万歳万歳万々歳」と書いて喜びを露にしている。しかし太郎の真の願いは徳馬の幼年学校入であり、これまでにも何人もの旧部下を、家庭教師にしている。このとき、いわば総仕上げとして家庭教師を頼まれたのは、歩一時代の部下阿南惟幾大尉であった。

太郎の持論は、「日本人は朝鮮人と結婚しろ」というものであり、これは徳馬も聞かされたことがあった。『ヨボ』という侮蔑的な言葉の使用も厳しく誡めていた。三・一事件のときも、「宇都宮が弱腰だから朝鮮人が付け上がるのだ」という声が支配的であり、同郷の後輩であった真崎甚三郎は、強硬弾圧策を進言するため京城まで来たが、かえって「非常識」だと諭されたという。後に太郎の実弾発砲禁止命令が、国際連盟での日本の立場を有利にしたとき、真崎は初めて太郎の真意が解ったと、徳馬に語った。太郎は原敬内閣のとき、朝鮮総督に擬されたが、これは長州閥の反対で実現しなかったと、徳馬は書いている。

水戸高校から京大に進み、四・一六事件で検挙される。出獄後、トレーダーとして一財産築き、株が縁で妻も貰った。これが駒井徳三の娘であった。駒井は札幌農学校出身の大アジア主義者で、郭松齢が反乱を起こす前に相談をした相手でもあった。満州国の初代総務長官であったが、事志と違い辞任した。東支鉄道の買収も手がけたが、そのときソ連から、「ついでに沿海州も買わないか」と言われて、荒木貞夫にそのことを伝えたところ、「いずれタダでとるからいい」と荒木は嘯いたという。荒木は太郎の親しい後輩であり、そのため徳馬も彼にはそれなりの好意を抱いているが、この件については、

「荒木さんは、世間が考えているよりははるかに常識人で、冗談でいったのだろうが、一般に軍人や力の信者は、戦争の費用や国民の犠牲を無視してかかるから警戒しなければならんよ」

と語っている。荒木については他にも、戦争中に会ったとき、

英米の捕虜を虐待したり、銀座街頭に英米の国旗を書いて足踏みにする当局のやり方は、ばかげていると攻撃していたので、見直した」

とも言っている。

トレーダーをやめた後は、ミノファーゲン製薬を設立し、戦後は代議士として軍縮にその生涯を捧げた。

三・一事件のときの太郎の態度について、徹底弾圧を企図した総督の長谷川好道に反対し、兵力の増強にも反対であったと朝鮮の史家は書いているそうだが、実際のところはどうだったのか。本人はどう書き残しているのか、日記を見てみたい。