満川君ニ言ウナヨ

  中谷武世様
満川君の西郷伝は如何。今迄凡ての著者は彼の翁を全く『道徳の銅像』として作り上ぐるに努め、翁の本質を伝へざるもののみなり。満川君も道徳家なるが故に危険此上もなし(満川君に言うなよ。だから市谷○○○○をすえられるのだなど言ふから)。早く出て神宮だの観音さんだの、不動さんだの御参りに行きたし。君と同乗して浅草に行きしことを思ひ出し候。書物追々差入れ下度待上候。令閨令息の健勝祈上候忽々
     十二月二日
        市谷刑務所 北輝次郎

(中谷武世回顧録「昭和動乱期の回想」下巻より。原文はカタカナ)
最初これを読んで、二・二六事件後の手紙かと勘違いし、かなりドキッとした。しかしこれは北一輝が、宮内省怪文書事件で収監されたとき、中谷武世に出した手紙。まあそれでも北好きとしては、中々心にグッとくるものがある。
中谷は猶存社の同人で、後に大亜細亜協会の創立者の一人となる。満川というのは、北、大川周明と共に猶存社の三尊と言われた満川亀太郎。安田共済生命事件や何やらで北と大川の仲が疎遠となって以降、満川がどういう立場を取ったのかは、不勉強なのでよく知らない。『三国干渉以後』にも書いていない。大体大川寄りだろうが、中には北よりと書かれているものも有る。岡村寧次は永田鉄山と小畑敏四郎の仲を取り持てなかったが、満川はどうだったのだろう。彼は北の刑死を見ることなく、昭和11年5月に亡くなった。大川だけが生き残り、市ヶ谷で東條の頭をペチペチした。