ゴン格7月号

ヒクソン・グレイシー

「マーシャルはあってもアートの部分に欠けるんだ。あの誇り高きヴァーリ・トゥードは何処へいってしまったんだ?」

桜庭和志

ヒクソンは「見たことも無いような金額を用意してくれればやる」と言っていたそうです。
「そんなのぼくもですよ!見たことも無いお金を出してくれたら、即やります。ジャカレイだろうがムサシだろうが、トーナメントに入れてくださいってこちらからお願いします」

吉田秀彦

「康生はレールに乗ってるんで、これから海外にいって留学して帰ってきて先生という。僕からしてみたら可哀想かなって気もするけど、まあヤツの人生なんで」

松原隆一郎

「篠原的美意識というなら、体現しているのは生田(秀和)なんでしょうけど」
「一番分らないのは優勝した上野順恵。代表に選ばれた谷本歩実にも直接対決で勝っていて、国際大会でも何度も優勝して、それで五輪に行けないとなったらどうしろというのか。裁判に訴えても不思議でないですね。」

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか

小川(直也)は高校時代に国際武道大に遠征に来ていた東北大柔道部と練習試合を行い、次期キャプテン岸文雄と七帝ルールで戦い引き分けている。

木村政彦は自著の中で、はっきりと史上最強の柔道家の一人として挙げている、
《私は人に、これまでの柔道家で一番強かった者は誰か、とよく聞かれる。牛島辰熊、野上智賀雄、栗原民雄、大谷晃と名選手の名は浮かぶが・・・》 (『わが柔道』)
また、金光弥一兵衛は新聞にこう寄稿している。
《日本で立っても寝てもやり、寝て抑え、絞め、逆(関節技)を完全にやって来たという人は十段磯貝一、十段永岡秀一、十段三船久蔵、九段小田常胤、八段二宮宗太郎、八段牛島辰熊、八段野上智賀雄、七段木村政彦ぐらいだろう》 (柔道新聞昭和三十二年一月一日号)
他のメンバーをみれば、ここに列される野上がいかに強かったか想像できる。間違いなく柔道史上最強の寝技師であった。
六高OB(昭和二年卒)の青木直行はこう言っている。
「日本柔道がヘーシンクに負けてしみじみ思うが、立っても寝てもヘーシンクに対抗出来るのはまあ野上、牛島、それに木村だろう。殊に野上をヘーシンクとやらしてみたかった。野上がヘーシンクの支え釣込み足をいかにさばいて寝技にもち込むかだが、寝たら格段の相違で簡単にとったろう」
昭和二十五年卒の佐野隆雄も断言する。
「私の見るところ、野上さんや根本さんクラスなら、間違いなくヘーシンクを抑えるなり、あるいは逆、絞めで取ったでしょうね。東京五輪で負けた時、袈裟固めでしたでしょう。あの時、『袈裟で取られるようではもう日本の寝技も終わったね』という話が出たことを覚えています。袈裟は逃げられる技ですから」

上智賀雄はその後、京大を卒業し、東レに入社。柔道部を創設したという。つまりTK高阪剛専大東レ→リングス)の大先輩ということになる。