張学良の昭和史最後の証言

張学良が本庄繁を語る

本庄繁さん−彼は私に本当によくしてくれました。私も彼を尊敬していました。私たちはお互いとても好意を抱いていました。私が日本に行ったときも、本庄さんが案内してくれたのです。

本庄さんは私の部下であった顧維鈞に人を介して会いたいと言ってきました。顧維鈞が後に語ったところでは、本庄さんは奉天市内にある「緑山」という料理屋で会いたいと申し出てきたそうです。顧維鈞は私の友人でもあり、また本庄さんの友人でもあります。本庄さんは、私に話したいことがあるので、顧維鈞に会おうとしたというのです。
私には本庄さんの気持ちが分かりましたので、ひとりの重要人物を派遣しました。当時外交部の次長をしていた劉という人物です。名前は失念しました。劉は、私のかわりに本庄さんと会いました。彼は帰ってきて、次のように語りました。
「本庄さんは、九・一八事件(満州事変)が起きることを知らなかったと言っていました」
本庄さんは事件が起きる二日前に奉天に行き、再び旅順に戻ってきたのです。もし、自分があらかじめ事件が起きることを知っていたら、奉天に残り旅順に戻っていなかっただろうと語ったそうです。九・一八事件の当日の夜、本庄さんは宴会から帰り、寝ていたそうです。部下から奉天で事変が起こったと報告を受け、急いで奉天に向かいました。本庄さんは、
「もし、私がこのことを事前に知っていたら、この事件は決して起こさせなかった」と語ったそうです。
奉天に着いてみると、すでに事態はあのようになっており、私にはどうやって収拾してよいか分からなかった。二、三日の間はどうしてよいのか分からず、事件を中央に上申しただけだった」と。私は本庄さんの話は本当だと信じています。
というのも、九・一八事件が起きてから二、三日は、日本のあからさまな軍事行動がなく、その間に多くの中国人が、東北地方から逃れることができたからです。
もし、軍事行動を起こしていたならば、そうした中国人を皆捕らえることができたはずです。ですから私は、本庄さんの話は嘘ではないと思います。

本庄さんは、私の財産を二両の貨車に詰め込んで、北京まで送り届けてきました。その時、彼は使いの者に親書を持たしてよこしたのです。
私はその使いの人に言いました。
「この荷物は受け取れません。本庄さんと私は親友でしたが、今は敵同士になってしまいました。こんなふうにしてもらうのは、侮辱されているようなものです」とね。
昔、アメリカのワシントンが、戦争の際に、彼の家を守った部下に対してこう語ったそうです。
「私は軍人として戦っている。自分の家を守るために戦っているのではない。こんなことをされるのは、私を侮辱するに等しい」
 その時の私の気持ちもワシントンと同じでした。ですから、本庄さんの使いに私はこう告げました。
「この荷物は持って帰って、私の家に元通りにしておきなさい。さもなければ、荷物はすべて焼き捨てます。しかしそうすれば、今度は本庄さんを侮辱することになります。そういうわけですから、どうぞお持ち帰り下さい」とね。

本庄さんは、本当に懐かしい人です。もし、私がもう一度日本に行くことができたならば、必ず、本庄さんのお墓参りをします。本庄さんのことを話すとき、私は悲しい思いを抑えられません。

本庄の自決

敗戦の年の昭和二〇年一一月二〇日、本庄繁は割腹自殺を遂げた。満州事変当時の関東軍司令官として、本庄は戦犯の指名を受けていた。発見された際、本庄は皇居に向かって正座し、切腹の作法通り腹を十文字に切ること三度、心臓を三度、頸部を三度切り、頸動脈を完全に切り裂いて伏していたという。

http://imperialarmy.hp.infoseek.co.jp/general/colonel06/honjo.html