安藤大尉と鈴木貫太郎

安藤輝三大尉鈴木貫太郎大将を訪ねたのは、二・二六事件の2年前の昭和9年1月下旬のことでした。このとき大尉は日頃の所信を大将にぶつけました。その中で当然、農村の疲弊も訴えました。それに対し大将は、次のように答えました。

今陸軍の兵は多く農村から出ているが、農村が疲弊しておって後顧の憂いがある。この後顧の憂いのある兵をもって外国と戦うことは薄弱と思う、それだから農村改革を軍隊の手でやって後顧の憂いのないようにして外敵に対抗しなければならんといわれるが、これは一応もっとものように聞こえる。しかし外国の歴史はそれと反対の事実を語っており、いやしくも国家が外国と戦争するという場合において、後顧の憂いがあるから戦ができないという弱い意志の国民ならその国は滅びても仕方があるまい、しかしながら事実はそうではないのだ、貴君はフランスの革命史を読んだことかおるかと反問したら、それはよく知りませんという、それではそのことの例を引いてお話しましょうと、フランスの帝制が倒れ共和制になったので他の国々は、それがうつっては困るというのでフランスの内政に干渉し軍隊を差し向けた、フランス国民はその時どうしたかといえば、たとえ政体はどうでも祖国を救わなければならないと敵愾心を振るい興こし、常備兵はもとより義務軍まで加わって国境の警備について、非常に強くまた勇敢に列国の侵入軍に対抗した、その時のフランス兵の一人一人について考えてみると、自分の親兄弟は政治上の内訌からギロチンに臨んでいるものもあり、また妻子が飢餓に瀕している者もあった、ナポレオンが太っているのを見て、お前はそうふとっているがお前は私に食を与えよと強要した一婦人もあるくらいでしたが、フランスの国境軍は熱烈に戦闘した、それが祖国に対しての国民の意気であった、そしてついにナポレオンのような英傑が出てフランス国民を率い、あれだけの鴻業を建てた、これはフランスの歴史において誇りとしているところである。
 しかし日本の民族が君がいうように、外国と戦をするのに、後顧の憂いがあって戦えないという民族だろうか、私はそうとは思わない。フランスくらいのことは日本人にできないはずがない。その証拠に日清、日露の戦役当時の日本人をご覧なさい、あの敵愾心の有様を、親兄弟が病床にあっても、また妻子が飢餓に瀕していてもお国のために征くのだから、お国のために身体を捧げて心残りなく奮闘していただきたいといって激励している、これが外国に対する時の国民の敵愾心である。しかるにその後顧の憂いがあるから戦争に負けるなどということは、飛んでもない間違った議論である、私は全然不同意だと。

安藤大尉はこれを聞いて、非常に納得して帰ったといいます。しかし結局のところ、この答えは大尉にとって50点だったのではないでしょうか。勿論彼がこういう聞き方をしたから、貫太郎大将もこう答えたのですが。安藤大尉は、除隊していく兵隊のために、自ら就職先を探してやるような人でした。大尉は、一朝有事の際、召集された彼らが心置きなく戦い、死ねるようにと、そのようなことをしていたのでしょうか。勿論軍人ですからそういった考えも持っていたでしょうが、もっと素朴に、目の前の貧困に対する苦悩もあったのではないでしょうか。貫太郎大将の言葉の正しさは、後に大東亜戦争が証明しました。貧しい家々から召集された兵隊達は、人間の限界を越えた艱難辛苦の中、戦いました。しかし、今現在目の前で苦しむ貧しい家の兵隊達を預かる安藤大尉にとって、それはすべての答えにはなり得なかったのではないかと思います。

「前島、お前がかつて中隊長を叱ってくれたことがある。中隊長殿はいつ蹶起するんです。このままでおいたら、農村は救えませんといってね。農民は救えないな、オレが死んだら、お前たちは堂込曹長と永田曹長を助けて、どうしても維新をやりとげてくれ。二人の曹長は立派な人間だ、イイか、イイか」

事件当日、鈴木邸を襲撃した安藤大尉は、とどめをさそうとする部下を制し引き上げ、奇跡的に一命を取り止めた鈴木は、後に首相として大東亜戦争の幕を引きます。事実は小説より奇なり。しかしそのあまりの数奇さゆえに、二人の間に過剰なストーリーが出来ているのではないかなと、ふと思い、つらつらと書きました。72年前の午前零時、安藤輝三大尉は第六中隊に非常呼集をかけます。

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