個性派将軍 中島今朝吾

 昭和五十六年(一九八一)十二月六日付の「朝日新聞」は、このとき中島今朝吾が記述した文書について、
 <無視された和平建白 昭和13年中国前線 師団長の直訴実らず 太平洋戦争に新資料>
 という見出しのもとに、つぎのように報じている。
 <日中戦争が深刻さを増していた昭和十三年夏、中国を転戦中の師団長の一人から、大本営や政府首脳あてに提出した停戦・和平要請の建白書が明るみに出た。
 防衛庁戦史室によると、戦場にいた師団長のような将官が、はっきりと和平を主張した記録は皆無に近く、きわめて珍しい資料。当時の軍部などの最高指導層が、最前線の声を無視して太平洋戦争への道をひた走ったことを示している、といえそうだ>
 の前文にはじまり、水攻めにあった尉氏での滞陣中、
 <中島中将は、この間に「意見具申」と題する建白書を書き、大本営に提出した。また、当時の宇垣一成外相にあてた同文の一通を従軍僧・村上独潭氏が帰国するさいに託した。
 ところが宇垣氏は、その直後の九月、近衛文麿首相との対立から外相を辞任。建白書は宇垣氏に手渡されないまま、中将の意向で村上氏のもとに保管された>
 この意見書の要旨は、
 <冒頭から、「戈を収めて一路ただちに皇道国家の建設に進むべきだ」と主張、理由として、
 1.中国軍はわが軍と決戦するを欲していない
 2.これを追撃することは、領土欲の表われと批判されかねない
 3.黄河の新流路ができたのを機に、それを自然の休戦ラインにすべきだ
 4.ナポレオンのロシア侵攻の失敗を教訓とすべきだ
 −などとしている>
 そして中島が宇垣に提出しようとしたのは、みずから大命降下阻止に一役かったものの、昭和十三年五月、外相となった宇垣が中国との和平工作に取り組んでいるのを知ってその非を悟り、宇垣に力添えしようとしたものらしい、と述べている。
 宇垣一成あての文書は、村上独潭に託したものだが、大本営にあてた意見具申書は、「中島日記」によれば、
 <昭和十三年六月二十四日、意見具申書類ヲ軍司令官ニ提出ス>
 とあって、東久邇宮稔彦王第二軍司令官(中将)をへて大本営に提出されたものらしい。

 だが、大本営はどうやら握りつぶしたようなのだ。したがって、防衛庁に引き継がれた旧陸軍省資料などには残っていない、と「朝日新聞」は報じている。
 しかし、中島がたよりとした宇垣外相の、国民政府の行政院長孔祥煕を相手にこころみた和平工作も、国民政府の”屈服“を要求して拒絶され、また閣内でも近衛首相との意見不一致で、在任わずか四ヵ月で辞任(昭和十三年九月二十九日)してしまったのだから、中島の勇気ある意見も、けっきょくは当時の政府や軍中枢には受け入れられぬ献策にすぎなかったかもしれない。
 抜群の才幹を有しながら、中島今朝吾の生涯には、本間雅晴山下奉文とはちがった一種の悲劇性が、つきまとっていたように感じられてならない。