恩愛の絆断ち難し

河内山譲『恩愛の絆断ち難し 富嶽特攻隊長西尾常三郎の生涯』光人社

サブタイトルの示すとおり、西尾常三郎大佐(死して二階級昇進)の伝記。西尾は陸士50期で、以前紹介した新海希典と同期。ちなみに著者の河内山も同期であるが、著者は偵察、二人は重爆であった。豪傑で鳴る田中友道大佐の第60戦隊で鍛えられた西尾は、屈指の重爆乗りとなった(田中の統帥の問題点に関しては一旦措いておく)。田中が転出すると、これまた剛直な小川小二郎大佐が戦隊にやってきた。西尾は小川の指揮下で重慶爆撃に出撃した。
その後、航空士官学校で区隊長となった。熱血の区助として抜群の人気があり、生徒は彼に”ヘス”というあだ名をつけた。航空士官学校幹事として着任した遠藤三郎が、緒戦のマレー航空作戦について、教官、学生、生徒を集めて講話を行ったことがあった。その爽やかな弁舌に皆感銘を受けたが、西尾は「くだらん。自分の手柄話じゃないか」と吐き捨てた。
昭和18年5月、第98戦隊の中隊長に就いた。98戦隊の属する第7飛行団々長はかつての戦隊長田中友道少将であった。カルカッタへ進攻する西尾たち重爆を支援するのは、同期の黒江保彦大尉の戦闘隊であった。
昭和19年3月、浜松陸軍飛行学校附となり、内地に帰還した。同校には、親友の新海が居た。8月、浜松飛行学校は、浜松教導飛行師団に改編された。中央部はかねてからの計画に基づき、四式重による艦船特別攻撃隊サイパン飛行場攻撃を任務とする九七式重による第2独立飛行隊の編成を内示した。第2独立飛行隊長には新海が就いた。西尾は自ら特攻隊長に名乗りを挙げた。隊は梅津参謀総長によって富嶽隊と名付けられた。丁度同じころ、鉾田でも特攻隊が編成されていた。隊長はやはり腕利きの岩本益臣大尉であった。これは万朶隊と命名された。この2隊が、陸軍最初の特攻隊である。岩本大尉は跳飛爆撃の第一人者であり、特攻作戦の強力な反対者であった。それが皮肉にも陸軍最初の特攻隊長に任ぜられ、結局敵に一矢報いることすら出来ずに、無念の死を遂げる。西尾は岩本と違い、自ら名乗りを挙げた。これより以前、まだ南方に居るとき、日記に体当たり作戦への決意を記している。それでもやはり彼も、大本営の推し進める特攻作戦には強い怒りのようなものを抱いていた節がある。19年10月26日、富嶽隊は浜松飛行場より出発した。出発を前に、航空本部長、師団長らの見つめる中、隊員に訓示を行った西尾は、訓示の最中に涙を流して咽び泣いた。元来彼には感情の起伏の激しいところがあったが、それにしても衆人環視の出陣式で、歴戦の勇者が涙を流して泣くというのは、一種異常な感覚を周りに与えた。新海ら同期生にも見送られた西尾隊は真一文字に飛び去った。それを見送り家に帰った夫人は、「かならず出発後見るのだぞ」と言われて渡された遺書を開いた。そこには墨痕淋漓たる筆致で、西尾の決意が示されていた。

恩愛の絆は断ち難し
断ち難きは 心弱きに非ず
一たびこれを断たば如何
強き絆は 強き反動を生ず
断々乎 断
今や 全く心静かなり


西尾の戦死とほぼ入れ違いに比島に着任した第5飛行団長の小川小二郎大佐は、特攻に反対であった。飛行団に、特攻機を出すようにという要求を持ってきた猿渡第4飛行師団参謀長に対し、小川はその怒りをぶつけた。
富嶽隊が四式をもってきたって、体当たりは成功しておらんじゃないか。西尾ほどの腕っこきを乗せてやっても、突入はできなかった。西尾が四式で行って、だめだというのなら、ほかの者が行ったって、だめさ」
「西尾少佐は惜しいことをしました」
「惜しいにも何にも、あれだけの重爆乗りがザラにおるものじゃない」

11月13日、富嶽隊第三次の出撃によって、西尾は戦死した。それにより二階級昇進の措置がとられ、西尾常三郎少佐は大佐となった。しかし隊長を亡くした富嶽隊の苦闘はまだまだ続く。

  



『Valkyrie』続報
以前のエントリでちらっと書いたトム・クルーズ主演のValkyrieのキャストが、更にちょっとだけ判明した。フロム将軍にTom Wilkinson、オルブリヒト将軍にはBill Nighyとのこと。うむ、もう少しドイツ系は使えないものか。
ところでこの映画、日本公開時のタイトルは”ワルキューレ”となるのか”ヴァルキリー”となるのか、どっちだろう?たぶんワルキューレだろうな。そうすると、当然宣伝部長は藤原嘉明だな。そしてレッドカーペットを歩くトムを襲撃!すると何故かドラゴンが前髪を・・・
ま、最近何となく第三帝国にはまってるので、この映画についてはこれからもちょくちょく気にしていくつもりです。