飛龍天ニ在リ

著者の伊庭稜太郎は航空士官学校卒。本書の主人公は新海希典少佐。アスリート飛行場への渡洋爆撃によって単独拝謁の栄誉を賜った人と書けば、ああ、と思う方もいらっしゃるだろう。著者は陸士でいうと56期に当たる人で、新海との直接の面識はない。が、著者の中隊長であった迫田富美男大尉が新海に深く親炙しており、その影響から、戦後新海の父と知り合う。

東幼の入校式では答辞を読んだ。入試の成績が1番だったのだ。入校当時の生徒監は後に硫黄島で戦死する千田貞季大尉であった。千田は新海の優れた天稟を見抜き、これを愛した。新海もまた千田を尊敬した。ところが半年後、生徒監が丸山房安に替わると、雲行きが怪しくなる。

丸山は新海を将校生徒としてさっぱり評価しなかった。新海の動作の緩慢さは人並みはずれていた。後年、彼の代名詞となる身だしなみへの無頓着さもこの頃からすでにあった。1週間も10日も風呂に入らんので同室の者が悲鳴を上げた。教官が注意したところ、戦場に風呂はありますかと答えたという話もある。怒鳴りつけられてもニヤニヤ笑うだけで、可愛げの欠片もない。

駆け足もまったくだめであった。ニューギニアで空襲を受けたとき、すたこらすたこら走って逃げた。ただそれだけの話を、迫田は嬉しそうに著者に語り、「新海さんはそれまで絶対に走ったことがなかった」と断言しては、からからと笑った。水泳でも恐ろしく金槌で、演習で船から海に飛び込まされたところ、もがくこともせず、そのままの格好で沈んでいくので、慌てた教官が飛び込んで引っ張りあげたという。

しかし決して努力を放棄した人間ではなかった。夏休みに実家に帰ると、父の元が鉄棒を教えた。やっているうちに段々興味を持ってきた新海は、そのうち自分で計画的に練習するようになり、上手になっていった。迫田中隊長が著者に語ったところによれば、新海操縦の練習機は、下から見ても一目で分かるほど上下左右に揺れていたそうだ。教員であった育ての母は、「希典さんはカメです」といったという。

しかし遂に、これ以上手に負えんと判断した丸山は、父を呼びつけ、ぐだぐだぐだぐだと夜中の2時をまわるまで喋り続けた。自発的に退校を言い出させようという意図であった。しかしそれを察した父の元は、猛烈に反撃に出た。
「入校したときあんたのところの校長さんは、希典は実に立派な所感文を書いたと口を極めて褒めてくださったんだが、それが2年やそこらでおかしくなるというのは、幼年学校はひとりの人間の教育もできないのですか」
思わぬ反撃を受けた丸山は、うーんと黙り込んでしまい、話し合いはそのまま物別れとなった。この話は教育総監部までいき、親父の言は尤もだという事で、新海の退校は無くなった。

丸山は後にビルマ辻政信と角つき合わせる癖の強い人物で、評判は総じて良くない。父はこの一件を新海に話してはいないが、人のことはあまり口にしない新海も、丸山については良く思っていなかったようだ。

予科で同じ区隊となった町田一男は中学出身者であった。彼のような中学組から見ると、幼年学校組は、いかにも軍人らしい挙措で、脅威であった。しかしただひとりだけ例外がいた。それが新海であった。背が低く、殆ど喋らず、目だけがぎょろりとしている。町田は彼をミミズクみたいだと思った。自習時間も居眠りばかりしており、大した人物ではないと思った。ものすごく頭の良いことに気付いたのは、半年後ぐらいだった。

新海らの区隊長は片岡太郎中尉であった。非常に人柄の良い、いかにも教育者適な人物で、候補生に人気があった。新海も片岡を崇敬し、彼の家に足繁く通っていた。しかし昭和9年11月以降、学校から片岡の姿は消えた。代わりに中山忠雄中尉が区助となった。

予科を卒業し、飛行第四聯隊での隊附を終えた新海は、陸士分校に入校した。区隊長は俊英田中耕二中尉であった。田中は当時、ドウエの爆撃万能論に傾倒していた。新海もまたその田中の強い影響を受け、重爆を志した。

卒業して航空兵少尉に任官した新海は、浜松陸軍飛行学校を経て、飛行第十二戦隊附となり、公主嶺に着任した。着任後間もなく、彼は下士官兵を飛行機に乗せれるだけ乗せ、新京まで外出した。新京の街で饅頭などたらふく食べ、さて帰ろうというときに、突如第七飛行団長(宝蔵寺久雄?)に呼びつけられた。飛行団長は飛行機による無断外出の不心得を激しく叱った。新海は泰然自若として
「そういうきまりがあることは知りませんでした」
と答え、周囲のものを唖然とさせた。処罰はされなかったが、その非常識ぶりは、たちまち満洲にある航空部隊に広まった。

大東亜戦争突入直前の12月、新海は陸軍挺進練習部、挺進戦隊附となった。空挺部隊を目的地上空まで空輸する部隊である。営外居住者の将校はトラックに相乗りして新田原の本部に通った。途中兵隊が敬礼しても、殆どの将校は雑談に夢中で答礼しない。しかし新海だけは、かならず答礼した。挺進第三聯隊の辻田信秋大尉は、ひとりひとりの兵に、階級を越え人間として対している姿勢を、新海の中に感じた。

挺進飛行戦隊の将校と挺進聯隊の将校の間で、落下傘降下の命令は、搭乗機の機長が出すべきか降下隊の指揮官が出すべきかの激論があった。その議論から日ならずして、新田原飛行場に降下した者があった。降下予定の無い日であったので、誰が降下したかはすぐに調べられた。新海であった。候補生時代、十二階段からの飛び降りも下手で見ていられなかった彼が、何の練習も無しにいきなり降下して、無事成功したのには皆驚いた。しかし何故降下したかについては、新海は一切語ろうとしなかった。

ラシオへの降下作戦は中止となり、挺進団は一旦内地に戻った。その後動員下令でニューギニアへ向かったが、またしてもベナベナ作戦は中止となり、スマトラへ転進。新海は昭和19年6月、浜松教導飛行師団教導飛行隊附を命ぜられ、部隊に先んじて内地に帰還した。

下宿屋曳馬野の女将のもとに飛行隊から
「新海少佐という偉い人がニューギニアから来られるから万端粗漏の無いように」
という連絡があった。数日後、よれよれの軍服に、汚いタオルを腰に下げ、頭陀袋と大学ノートを持った新海が現れた。
「お荷物はいつごろ着くのでございましょうか」
と聞くと
「ぼく荷物ありません」
と答え、柱の釘に持っていた頭陀袋を掛けた。上着を脱がそうとした女将は、あまりの臭さに思わず
「お風呂におはいりなさい」
と命令口調で叫んだ。

浜松には同期の古野一正と西尾常三郎がいた。三人は月に一回同期会を催すことにした。7月の第一回目の同期会の最中に空襲警報のサイレンが鳴った。西尾は立ち上ると、
「チャンス到来。貴様ら続け」
と叫んだ。
「どこへ」
古野が聞くと
「きまってるじゃないか。突撃だよ」
遊郭へ行くという意味だ。高射学校勤務の古野は、外に出ると
「俺はここで失礼する」
と言った。
「おお」
と答えた西尾は浴衣の裾をからげると走り出した。その後をうつむき加減で新海が追う。
「空襲警報、空襲警報」
と大声で叫びながら、曲がり角を曲がって消えた二人に、古野は、なんと大胆な奴等だと半分呆れた思いでいた。その数日後、街で西尾と会った古野は
「俺は臆病者だからお前たちのような真似はできん。近いうちに結婚することにした」
と言った。
「それもよかろう」
8月に入り、古野は結婚した。「それもよかろう」などと他人事のように答えた西尾はその数日前に結婚した。新海だけが独身で残った。

ある日古野が妻を連れて新海の下宿を訪ねると、新海は壁にボール紙を立てかけ、それに軍艦の写真を貼り付けて睨んでいた。
「これはなんだ」
「フランクリン」
「次のは」
「ヨークタウン」
「いつもああして見てるのか」
「うん」
「何分ぐらい」
「1時間くらいかな」
「ときどき写真を並べる順序を変えるのか」
「変える」
その後、取り留めの無い話をして夫妻は帰った。

大本営は航空総監に対し、連合軍に奪われたサイパンへの特別攻撃隊の編成を指示した。新海がその隊長に選ばれ、第二独立飛行隊とされた。同じ頃、西尾が富嶽隊の隊長に選ばれた。10月、古野の元に新海から電話があった。
「ニシが出発するので、直ぐに見送りに来い」
古野の顔を見た西尾は固い表情で、
「元気でな」
とだけ言って機に向かった。新海は黙っていた。
「おい新海、歴戦の彼のことだから、そう簡単には死なんだろうな」
「今度は死ぬ」
驚いた古野は思わず新海の顔を見つめた。
「いつごろ」
「あと2週間かな」
新海は富嶽隊の任務が何であるか知っていたのだ。

11月2日、新海隊はサイパンへ出撃した。9機が出撃し5機未帰還となった。11月6日、第2回の出撃には第1回の残存4機に予備の1機を合わせた5機であった。第1回では最初に飛び込んだ隊長機は、今度は速度を落とし、最後に突入した。後から突入する方が、当然危険度は高い。少なくとも11機以上を撃破し、全機硫黄島に帰還した。11月27日、ほぼ同じルートで第3次のアスリート飛行場攻撃が行われた。前回同様、隊長機は速度を落とし、最後尾から突入し、最後に離脱した。12機以上が炎上し、全機硫黄島に無事帰還した。


12月27日、防衛総司令官東久邇宮殿下より、第二独立飛行隊に感状が授与された。新海は初めて身だしなみを気にした。
「そっちの手袋のほうが少し白いか」
といって同期の南重義の手袋を借りて、恐る恐る司令官室に入っていった。さらに彼の功績は上聞に達し、天皇陛下への単独拝謁を仰せつかった。新海は普段軍刀を引き摺って歩くため、古野のものを借りた。軍服も古野が用意した。下着類は部下が駆けずり回って集めた。体以外はすべて他人のものを身に付け、昭和20年2月23日午前9時20分、新海は陛下に拝謁した。その模様は、新海が誰にも語っていないため、一切伝わっていない。

新海の感状授与をビルマで伝え聞いた迫田大尉は、強い衝撃で顔をこわばらせ、何度も文字を追っているようであった。その晩酒を酌み交わすと
「太平洋の波濤を越えて、新海部隊はゆくぞお!アラカン山脈をこえて迫田中隊はゆくぞお!」
といつもの叫びをやった。しかし昭和20年3月4日、迫田機はシュエボ飛行場攻撃の帰途、エンジンを撃ち抜かれ自爆した。彼もまた師匠同様、最後に突入し、最後に離脱することを常としていた。

拝謁の翌日、第六十二飛行戦隊長に任命された。上司の第三十戦闘飛行集団長の青木武三少将は、生粋の戦闘機乗りであり、新海とはもう一つ合わなかった。南の家に泊まった新海は
「今度がいよいよご奉公の終わりになるかも知れん。どうも戦闘隊出の上司が多いと、戦闘機みたいな使い方をされるんで」
と、あとは言葉を濁した。

3月、戦隊は特攻を命ぜられた。新海はこれに強く反駁した。
「戦隊はご存知のようにまだ戦力を回復しておりません」
「存じておる」
「その微力な戦隊を何故小刻みに特攻につかおうとなさるのでありますか。戦力は小刻みにではなく重点的に集中使用を図るべきであろうと考えます。私には集団長の御意向が理解できないのであります」
「分からんのか」
「小編隊による爆撃隊の投入では、目標につくまでの途中でみすみす艦載機に食われてしまう惧れのあることは十分ご存知のことと思うのでありますが」
「その危険はある。だが差し迫った首都防衛のためには止むを得まい。もちろん掩護戦闘機は十分つけるようにする」
「十分つけるだけの戦闘機はあるのでありますか」
「・・・・・・」
「掩護戦闘機は十分あるにいたしましても、特攻ではなく跳飛弾攻撃、又は魚雷攻撃の方法をとれば、重爆隊の戦力は何度でも繰り返し使えるのであります。損害はその都度ありましょうが、残るものもあり得ましょう。その方が絶対に得策であると考えます」
「貴官の意とするところは、十分理解している。だが先ほども申したとおり、事態は切迫しているのだ。命中率のより高い特攻戦法にたよる他に手はあるまいが」
「特攻戦法をとらざるを得ないに致しましても、戦隊は、まだ、技量向上の余地が極めて大であります。それをいまの時点で特攻に使用するのは、下策であると思うのであります。姑息な手段としか考えられないのであります」
「すでに決定したことである」
「やむを得ません。私が先頭にたち、突入いたします」
「戦隊長みずからの特攻出撃は許さん」
「戦隊の非力を補うためには、それでも」
「ならん!何度言えばわかるのだ!」

隊に帰った新海は、伊藤中隊長に特攻隊の編成を命じた。伊藤は少尉候補者出身の三浦中尉を隊長に選んだ。3月19日14時30分、攻撃隊員と戦果確認機搭乗員が整列した。新海はとつとつとした口調で
「この出動は不本意であるが、新海も共にゆき、お前たちの最後を見届ける。力の限りを尽くして貰いたい」
と語った。隊員が、いっせいにうなずく。
「今日はどこまでも突っ込むよ」
新海は笑いながらに三浦に言った。

熊野灘で編隊はヴォート・シコルスキーに襲われた。機動部隊が下にいると考えた三浦中尉は機首を下げ、雲に突っ込んだ。渡部機が続いた。後方を見上げた三浦の目に、シコルスキーにまとわりつかれながら、水平飛行を維持する四式重が写った。

新海は二階級昇進して大佐となった。享年28歳。機動部隊発見との情報をもたらした偵察将校梶川大尉は、新海の同期生河内山少佐の制止を振り切って特攻隊に志願した。副官の山口少尉が新海の部屋を片付けに行くと、行李が一つあるだけであった。一番上に預金通帳と印鑑が載っており、残高は30銭であった。

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