東條秘書官機密日誌
いつまでも愚痴っててもしょうがないので、適当に書き散らすことにしました。
この本の著者、赤松貞雄は徹頭徹尾東條サイドの人間ですので、星野直樹に好意的です。ではその反対側に居るのが誰かというと、岸信介ですね。武藤章のブレーンだった矢次一夫は、書記官長に星野ではなく岸を据えるように強く武藤に進言。それを受けた武藤はかなり執拗に運動し、それが彼と東條英機の仲違いの一因になったと書いています。結局、武藤は佐藤や赤松のような東條の郎党ではなかったということですね。
さて回顧録など読むと、敢えて人物名を伏せてあることがよくあります。よってそのあたりを中心に書いてみようかと。
”私たちの取締生徒は、田中義一大将の女婿でなかなかの美男子であり、成績も首席だった。私はその前に机をおかされ、何時も彼に監視されているように思われて困った。私がニキビだらけの醜面であり、処分されたりしたので、何時も無愛想に取り扱われていた印象しか残っていなかった。それなのに、運命のいたずらか、後年私が教育総監部奉職時代でも、欧州出張時代でも、彼が思いつきのことをして失敗し、その後始末を私がさせられる羽目になったのである。そして私は出来るだけの御世話をして、彼から大いに感謝せられたのである。”
首席というのは毎年いるが、田中義一の婿(養子)となると限定される。西村敏雄その人だ。かれは幼年学校から陸士、陸大すべて首席で通した稀に見る秀才であり、フィンランド、スウェーデンの公使館附武官を務め、戦後は「北欧諸民族の祖国愛」という本まで出している。後輩にTという成績のよい中尉がいた。(彼は陸大に入り、更に東大に聴講し、大東亜戦争では参謀として香港攻略に功があったが、戦後死亡された)この中尉が、大演習出発前、不幸にも花柳病にかかり私は彼を伴って連隊長室に行き演習不参加の御詫びを申述べた。例により東条連隊長は、
「安いものを買うからだ馬鹿者め!!」
と大声で叱咤した。だが、その後で私だけを残すと、すぐ連隊長の友人の医者に電話連絡を私に命じ、自分で電話口に出て、
「私の可愛い部下だ。将来有望な青年将校だから、金はかかってもいいから徹底的に治してくれよ」
と懇々と話をし、当時営業自動車が少ないときわざわざ自動車を呼んで彼を入院させた。
この本は以上。