日教組=日狂蛆?

教育基本法改正案が可決された。しかし皮袋を新しくしても中に注ぐ酒が古いままではあまり意味はなかろう。教師がどう変わるかが大事だ。まあ変わらなくても良い人も沢山いるだろうが。しかし幸いというか何というか、私などは小中高と通して見ても、それほど狂った教師には巡り合わなかったように思う。のであまり日教組とか言われても実感が無いというのが正直なところ。尤も、いるにはいたが”本業”が忙しくて我々生徒に接する機会があまり無く、気付かなかっただけかもしれないが。

ところで常岡滝雄の『大東亜戦争の敗因と日本の将来』を読んでたら、日教組日狂蛆と書いてあった。中々手の込んだ当て字だ。昔はよく使われたのかも知れないが、私なんかには新鮮で面白く、ついこのエントリを書く気になった。しかし逆方向に行き過ぎて日本狂いの蛆になっても困るわけで。物事程よいバランスが大事。

さて、常岡滝雄は陸士33期で杉本五郎と同期であった。二人は、常岡が工兵のため原隊は違うが、共に第五師団に勤務していた。郷党が派閥に及ぼす影響は周知のことだが、勤務地がそれに及ぼす影響も無視できない。今ほど通信手段が発達していなかった当時としては、これは当然のことだ。第五師団の青年将校たちというのは、その後二・二六事件を起こした東京などの人々とは犬猿の仲であった。杉本大尉などは、相沢中佐処刑の報を聞いて祝盃をあげたというし(末松太平『私の昭和史』)、「二・二六事件の様なものに、我が第五師団からただの一人でも参加するやうな心を持った者を出したら、五師団の恥だ。皇軍の恥である」というようなことも云っていたらしい。杉本や常岡等の蹶起将校への反感というのは、結局北一輝への反感に拠るところが大きいようだ。彼等は、北を結局は社会主義者であると見てこれを嫌い、若い将校たちがこれに騙されたことを嘆き、北・西田を極刑に処すべしと叫んだ。

ところで杉本五郎といえば勿論『大義』であるが、私が惹きつけられるのは、「天皇天照大御神と同一身にましまし宇宙最高の唯一神」といった部分よりも、彼が支那事変の陣中で書いた第十七章だ。彼がどういう心境でこれを書いたのか興味深い。以下太字は摘要。旧字は無視した。

大義明白なる戦争発起も、之に従ふ上下、大義不明分ならば、各々自己を執ってその保存に懸命の努力を終始せん。(八十八字略)万端悉く、皇軍の面目(十八字略)現皇軍が皇化第一線の使徒たること(十五字略)
いきなり検閲だらけだが、言いたいことは伝わる。
皇国の戦争は聖戦なり、神戦なり、大慈悲心行なり。即ち皇軍は、神将、神兵ならざるべからず。此の精神だに徹骨徹髄透徹しあらば、忌むべき皇軍汚辱の自己功名保存の利己的戦争とならざるなり。
彼をして改めてこのようなことを書かしめた北支の戦場の様相思うべし。
世界興亡の足跡を仔細に検討せよ。其の滅亡の最大原因は常に飽くなき利己心、停止を知らざる自己保存ならずや。(四十五字略)国を廃頽に導くものは共産輩に非ず、人民戦線に非ず、乃至社会主義にも非ず。此等の主義は日本精神練磨の大砥石なり。
二・二六で処刑された将校の中には、幕僚ファッショを予言したものもいた。北は”当分戦争してはいけません、特に支那とはね”と言い遺した。
亡国は底なき自己保存、飽くなき利己心にあるのみ。戦争は一身乃至世界の修養なり、利己心滅却にあり、自己保存崩壊にあり。我執無きものにして始めて尊皇絶対、外に向かって御稜威を布伝し得るのみ。軍よ、(十六字略)より脱却せよ。戦は先ず心に向かって開始せよ。一身の維新を計りて、真の日本軍人に蘇生せよ。かくして始めて、軍は、皇軍、将は神将、兵は神兵、戦は聖戦なり。
杉本は昭和12年9月14日、山西省で戦死し、中佐に任ぜられた。皇軍は北支を併呑し、上海を落とし、南京へ雪崩れ込んだ。中佐の手帳にあった絶筆は
汝、吾を見んと要せば、尊皇に生きよ、尊皇精神ある處常に我在り

余談だが、常岡氏のあとがきによれば、彼は戦後間もなく山岡壮八に徳川家康を書いてくれと頼みに行ったそうだ。そのときは色好い返事を得られなかったが、数年後、新聞小説として徳川家康が始まった。山岡によれば、既に常岡に頼まれたときには、家康を書くつもりで準備をしていたそうだ。山岡は最初それを西日本新聞に持ち込んだが、福岡人の最も嫌う家康を連載したら新聞が売れなくなるということで、之を断ったらしい。それにしても福岡人が家康嫌いというのは何故だろう?


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