俺は之から朝鮮へ馬に乗りに行くからお前は船に乗るがええ

引き続き、秋山好古大将伝記刊行会編纂『秋山好古』より。

(タイトルは講演活動に精を出す弟に送った訓戒)

兄弟愛
長兄の則久は俊才の呼び声高かったが、上京して脳を病んだ。次兄は養子に出ていた為、家督は三男の好古が継いだ。則久は人に接するのを好まず、また入浴と理髪も嫌った。入浴の方はお熊婆さんが宥めすかして入れたが、理髪の方は好古が自分で近所の理髪店に連れて行った。途中煎り豆の袋を買うと、一緒に齧りながら順番を待った。
或るとき、理髪師が家に来たことがあった。則久は俄かに裏口から逃げ出し、夜になっても行方が判らなかった。遂に警察に捜索願いを出すと、夜半過ぎ、保護したとの連絡があり、好古が直々に、人力車を雇って、迎えにいった。二人は車に相乗りして帰ってきたが、好古は帽子も履物も則久に与え、裸足であった。
好古が遅れて食事を取る時など、則久は好古の食膳の前に来て、美味そうなものをつまんで食うことがある。風呂嫌いで爪は伸び垢で黒くなっていたが、好古は嫌な顔一つせず、「どうかな」と言うばかりで、好きにさせた。則久は61歳で亡くなったが、好古は最後までその面倒を見た。

兄弟愛(2)
真之が、母貞子が東京は寒いだろうと送ってきた綿入りの足袋を履いていると、好古は「贅沢」といって脱がしてしまった。
真之のあまりの身汚さに兄の道一が縮緬の帯をくれた。真之がそれを締めているのを見た好古は、「そんなものを締めるな」と叱りつけた。真之はその後、その帯を締めることは無かった。
或る雪の朝、真之が切れた下駄の緒を直していると、好古に「跣で行け」と怒鳴られた。
真之が英国出張を命ぜられたとき。出立の前日、好古が帰宅すると、真之は自室で出張の準備をしていた。しかし好古はいつもどおりで、特に何を話すわけでもなかった。翌朝、いつものように好古は出勤した。出掛けに交わした会話、
好古「淳、行って来い」
真之「うん」
これが兄弟の訣別の言葉であった。後でそれを聞いた母は、「いくら男とはいえ、弟が初めて洋行するというのだから、もう少し言い方もあるだろうに」と嘆いたという。
真之は来客が来ても床の間を譲らない人間だったが、好古が来たときだけは、自ら末席に付いた。そして海軍中将となり、妻子7人の大家族を持つに至っても最後まで、好古の戸籍に付属し、分家することはなかった。
真之が危篤となったとき、好古は検閲のため白河にいた。好古は「東京を出るときから今日あることを予期して、別れをすませてきた」として「行かぬ、宜しく頼む」という電報を打たせた。真之逝去の悲電が入っても帰ろうとしない好古に困った副官は、人事局長の白川義則に頼んだ。白川は「検閲は一時高級属員に代理せしめて帰京するように。これは大臣の命である」との電報を打ち、漸く好古を帰京させることが出来た。

結納
次女が結婚するとき、媒酌人が結納について相談に来た。
三輪田「結納ですが、百貨店の目録で如何でしょう」
好古「それで結構じゃが、出来れば俺に一つ頼みがあるんじゃが」
三輪田「それはどういうことでしょう」
好古「うん、外でもないが、あの角樽というのがあるじゃろう?俺はあれが欲しいんじゃがの、酒を一杯詰めてね」
三輪田「あれですか、お安いことと思いますが、一応先方にも申し入れた上で・・・」
好古「外の物はどうでも好いが、あれだけは是非欲しいの」
先方でも快く承諾したので、媒酌人が三越に注文すると、流石の三越にも角樽の出来合い品はない。そこで特別注文で造らせた上、酒を詰めて秋山家の送らせた。

買い物
長女が結婚するとき、真之が多美子夫人を助けて、柄や模様の見立てをした。それを聞いた好古は、「そのくらいのことなら俺でも出来る」と言い、実際次女の結婚のときには、自ら呉服屋に出向いて選定した。夫人は好古の目の高いのに驚いたが、後で届いた請求書が高いのにも驚いた。好古は価格に頓着せず、気に入ったものを注文していたのである。こうして好古の買い物は一回で落第となった。

服の趣味
夫人は云う。「秋山はあれで中々着物の趣味があったらしいのですよ。気に入ったものを着せるとニコニコしていますが、粗末なものを着せると矢張り機嫌が良くなかったようです。その癖少しも御構いが無いですから、着物だけには弱らされました。ひどく襟垢の付いた着物で、久松様の御邸に平気で出掛けるのですから、油断ができないのです」
松山での校長時代を知る人はいう。「松山できちんと和服を着られていたのは、女中さんが気を付けていたからです。加井夫人が「之を着なさい」と言えば「うむ」、「あれを着なさい」と言えば「うむ」で、要するに他から着せられていたので、放っておけば寝衣のまま何所へでも行くという無頓着さでした」

趣味
好古は浄瑠璃が好きであった。興が乗るとしなをつくて真似をしたりした。又相撲も好きで、特に常陸山のファンであった。常陸山黒瀬川に初顔合わせで負けたときなど、家に帰ってきても「黒瀬は憎いほど強い奴じゃ」と云うので、家族は笑ったという。
陸軍特別大演習で福岡に来たとき。竹内副官を連れて食後の散歩をしていた好古は、突然活動写真の前で立ち止まった。
好古「竹内入ろうか」
竹内副官は怪訝な顔で「何処へでありますか?」
好古「活動によ」
竹内は驚いて「イヤ、お止めになった方がよろしう御座いましょう」
好古「でも、沢山人が入っとるじゃないか。入ろう、入ろう」

筆不精
白川義則が陸軍次官に就任したとき、教育総監をしていた好古は、人事に関する希望を葉書に墨で大書して送ってきて、白川を驚かせた。
白川「人事は秘密を要しますから、葉書ではなく親展書でお願いします」
好古「それじゃ、電話で言おうか」
白川「電話では後に書類が残りませんので、やはり書き物で頂きたいので・・・」


全国の騎兵将校から記念品として、銀の大花瓶が送られた。
好古「この花瓶は百圓もするかな」
武川大佐「いいえ、その数倍も致しました」
好古「そうか、それは大変な物を貰ったが、そんな高い物何故呉れた!!」
武川「ハッ」
大佐はまるで怒られたようであった。


住宅に関心の無い好古は一生借家で過ごした。その家も随分古い家で、雨が漏ることもあったが、一回も家主に修繕を要求したことはなかった。家主の未亡人曰く、
「秋山さんであればこそ、我慢して、あんなぼろ家に入って下さるのです」

禁酒
好古「清岡、お前ともう一度戦争に行きたいの」
清岡「余り強い酒さえお召し上がりにならなければ、是非御伴したいものです」
好古「此次は酒は飲まぬよ」
清岡「その御言葉だけは信用出来ません」

単身赴任
北予中学校長時代、古い友人が帰松した機会に訪ねて来た。丁度食事時となったので、友人が食事はどうするかと聞くと、何処からか貰った菓子折りを出して、「ここにええ物がある」とカステラの食い残しを食った。友人はそれを見て驚くと共に、単身赴任生活の不自由さに同情したという。


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