2・26事件特集(17)満川亀太郎

これまで

また話が逆戻りしてしまうが、北一輝大川周明と並ぶ重要人物である満川亀太郎の本を紹介する。この『三国干渉以後』は、昭和10年に下中弥三郎平凡社から出版された自伝めいた書である。昭和10年に出たということを念頭に置いて読むと、中々感慨深い。論創社から再販されている。戸部先生の『ピースフィーラー』といい論創社GJ

満川は大阪に生まれ、京都で育った。小学生のときに再び大阪府豊能郡池田町(今の池田市)に引越し、更に池田から南に一里半の北豊島村に移った。この北豊島村というのは今の阪急宝塚線石橋駅のある付近であり、当時は池田より見れば草深きド田舎であったそうだ。私事で恐縮だが、私は大学の関係でちょうどこの辺りに住んでいた。満川もまたあの辺りで育ったのかと思うと、なお一層の親近感が湧く。高等小学校に上がると、教師をしていた兄にくっついて京都に戻った。この頃、北清事変において発生した馬蹄銀事件を聞き、軍人から泥棒が出たと深いショックを受ける。星亨が殺されると、校長は生徒を集めて、星の罪悪を並べ立て、伊庭想太郎を賞揚した。渡良瀬の鉱毒事件に胸を痛め、近衛篤麿の国民同盟会就任に、日露開戦近しと、心を躍らせた。

余談だが、北清事変に出動した第五師団長の山口素臣が死んだとき、それがどうしたことか山縣有朋の訃報として伝わった。それを聞いた小村寿太郎は「それはどうもおかしいな。山縣大将とは今朝お目にかかって話をしたところだが」とつぶやいた。間もなく誤伝が明らかになると、小村外相は「ウム、死んだのはアレか」と言っただけで、弔問の使者さえ出さなかったという。

小学校を卒業した満川は、中学校には進まず、日本銀行京都出張所に就職した。入行当時の総裁は山本達雄、副総裁は高橋是清であった。間もなく京都出張所の所長が替わり、大阪支店より井上準之助が赴任してきた。日露戦争の最中、広瀬武夫の詩に感銘を受けた満川は、日銀を辞め、中学に進むことを決意した。ところがそこで入った中学が、私立吉田中学校というとんでもないインチキ学校で、一日も出席しないものに卒業証書を売ったなどの悪行がばれて、文部省から閉鎖を命じられてしまう。卒業を間近に控えた五年生は、生徒大会を開き、陳情団を東京に送ることを決定した。イの一番に最も悲壮なる演説をした満川は5人の陳情団の筆頭に挙げられ、2名の教師に付き添われ上京した。「国家の柱石たらんことを望めばなり」とか「社稷は常に俊傑によりて維持せらる」といった大人ぶった陳情書を文部省(大臣牧野伸顕)に提出したところ、「君等は学業をおろそかにして何をしに来たのか。陳情など学校当局がやることだ」といって相手にしてくれない。それでも、具体的な方法を案出してくれない限り、手ぶらでは帰れないとごねていると、西園寺公望の秘書官であった中川小十郎が、まとめて面倒を見ようと言ってきてくれた。それが清和中学校、後の立命館である。

中学を卒業した満川は、上京し早稲田に入学した。東京に着いて直ぐに読んだのが、幸徳秋水平民新聞だった。また彼は、宮崎寅蔵らの革命評論も愛読した。早稲田に入ったものの、大隈のことはどうしても尊敬する気になれなかった。日本に革命を起こさなければならないと考え、部屋の壁に「革命者善也」と赤書して人を驚かせた。また学内の図書館に入り浸り、北輝次郎の発禁書「国体論及び純正社会主義」を借り出し、五日間で読了した。

間もなく、食べるために民声新聞に原稿を書くようになった。民声新聞社は星亨が創刊した新聞であり、かつては横川省三や国木田独歩が編集長を務めていた。満川はこの仕事を通じて小栗孝三郎や床次竹二郎と知り合った。

大逆事件が起こると、満川は記者としてその判決が下されるのを傍聴した。彼はこのような事件が起こったことの責任は、官僚閥族にもあるとして、金権に阿附する政治を憎んだ。このことを床次にぶつけると、彼もまた桂さんの責任は大であると述べたという。

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