蓮田善明と大津皇子

前回

蓮田の国文学者としての大きな業績は、大津皇子の発見だそうだ。大津皇子天武天皇の皇子で、天皇の死後、草壁皇子と対立し、謀反の咎で死を賜った人物だ。余談だが、古代史に無知な私は、よくこの人と有間皇子を混同してしまう。蓮田は『文芸文化』昭和13年11月号に発表した「青春の詩宗 − 大津皇子論」で、万葉集大津皇子の歌について評論している。

蓮田は、大化の改新によって、曽我氏に代表される氏族的文化が滅亡して、嘗てなかった「論理」文化が台頭したと説く。そして、万葉集を年代順に見ると、氏族的類型的が続くが、大津皇子の歌に至って初めて大化の精神が匂ってくるという。大化の精神というのは、個性的現実的であることを指す。大津皇子はこういう大化的精神を持った最初の方の詩人であり、それ故に、古き伝統によって「犠牲」にされたという。

蓮田の大津皇子の歌に対する論評を、松本氏は「はっと息をのませるほどに鋭」いと書いているが、確かに歌心のない私でもなるほどなあと思う。蓮田は皇子の

足引の山の雫に妹待つと吾立ち沾れぬ山の雫に

という歌を引いて、次のように評している。
「足引の山の雫に」から「妹待つと」へは唐突である。経験的事実から云えば「妹待つと」が最初で、山の雫に濡れるのはその後の経験でなければならない。然るに作者は経験の中から既に、自らを冷たくぬらすものの存在を知っているのではないか。そしてその襲いかかってくる或るものに、鋭く身構えている。そして予想通り、その或るものは作者を冷たくぬらした。最後の「山の雫に」の繰り返しは、これに対する悲壮なまでの覚悟の表明である。己をぬらすものに対して(恋人ではなく)、強いて待ち、立ち濡れているかの如き気概を感じさせてくれる。それはもはや己に冷厳と襲いかかってくるものへの燃ゆる如き戦いである。

また

大船の津守の占に告らむとは正しに知りて我が二人宿し

については、
「大船の津守」は監視者、つまりかさにかかってくる旧世代を表しており、それに対して「正しに知りて我が二人宿し」は、凱歌である。監視者が見破ろうとするものは、もはや若い人々にとっては秘密でもなんでもないのだ。作者は己を滅ぼそうとするものに対して、恋の成就をうたう形で、「青春を蕩尽してやろうとした」(これは松本氏の言葉)のであるという。ちなみに皇子の恋の相手は石川郎女である。

さらに

百伝ふ磐余の池の鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠るなむ

という歌では、
若人は死に臨んで「生」と「死」を恐ろしいまでに識別している。この人以前にこれほどまでに「死」をリアリスティックに見つめた人はいない。この死に吾を死なしめている。この詩人は今日死ぬことが自分の文化であると知っていると、書いている。

蓮田は大津皇子を通して、転形期の若者の精神を発見した。転形期は若者に死を要求する。その死の上に新たな文化が生まれるのだ。蓮田は「私は、かかる時代の人は若くして死なねばならないのではないかと思ふ」と書いている。かかる時代の若者。それは蓮田自身のことだ。自分たちは「若くして死なねばならない」。蓮田は大津皇子の研究を通して、痛切にそのことを意識し始めた。

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