三浦観樹将軍の回想記

三浦梧楼『明治反骨中将一代記』芙蓉書房

久々のヒットなので、摘要してみる。


脱隊騒擾余談
乃公は北越戦争の後、暫く国元にいた。そのときの話である。乃公は隊長だったが、隊長の給料は兵隊と同じで月30匁であった。ところがある日、山口に出張すると、出張費だといって500匁を会計係が渡してきた。聞くと、隊長連が山口に来ると、旅費として500匁渡す慣例だという。当時、各隊とも、兵隊に渡す給料も無く、仕方なく残余の米や武器を売って金を作っていたというのに、隊長連は勝手放題金を使っていたのである。山縣は役職は軍監でも実際は総督である。乃公が山縣に不快の念を抱くようになったのはこのときからだ。
その後、兵隊たちに報いるところ薄かったせいもあり、脱隊騒ぎが起こった。上層部の指導が宜しきを得ず、多くの死者を出してしまった。大正になってから、乃公はこのときの生き残りを3人、東京に呼んでやった。皆大層喜んできた。たまたま時事新報がそれを記事にしたところ、それを読んだ原敬が、3人を是非首相官邸に招きたいという。来いと言うのだから行って来いと送り出してやった。3人と会った原は、奇兵隊が強かったのは、彼らを見たら想像がつくと言っておった。ところが、この間山縣は、何も言ってこない。知らないはずは無いんだがな。まあ、3人の方も、山縣のところに行きたいとは、とんと言わなかったが。

兵部省出仕の頃
乃公は木戸に言われて東京に出た。丁度山縣が洋行から帰ってきたので、久々に一杯やろうと中村楼に登ると、前原一誠と佐々木男也も来た。ところが前原は一言もしゃべらない。実はこの前の脱隊騒ぎのとき、前原が帰国しようとしたので、前原では騒ぎは収められない、どころか余計に大きくなると考えた乃公は、条公に頼んで前原の帰国を止めてもらったのだ。それが前原は気に食わない。山縣に事情を説明すると、山縣も乃公の言うとおりだと納得した。愈々前原は納まらない。まず山縣が杯洗の水を前原の顔にぶっかけると、「なにをするぞ」と前原が飛び掛ってきて、2対2の喧嘩になった。喧嘩は往来に出てまで続いたが、提灯の火から火事が起こり、大騒ぎとなった。こっちも水だ水だと、大狼狽、喧嘩どころではなくなった。その後、国に引きこもった前原と一度会い、上京してくるよう説得したが、結局愚痴の人だけに、腹のそこまで氷解せず、遂に身を滅ぼしてしまった。

征蕃事件前後

薩人の機嫌を取るためだけに政府は台湾征伐を決定した。とんでもない自家撞着である。木戸は憤然と反対した。乃公も勿論こんなものには反対であった。乃公は当時、兵器の元締めのような職にあったので、出征する連中に一切兵器を渡さなかった。みんな困ってあの手この手で乃公を説得しようとしたが、乃公は一切聞かなかった。一身の事なら譲りもしようが、国家の公事を曲げることはできない。どうしても武器が要るなら乃公を辞めさせればいいだろうと、辞表を叩きつけて行方を眩ました。80の老親が国に帰りたがっていたので、親を連れて横浜の駅に行くと、福原和勝がうろうろしている。きっと乃公を探しているんだろうが、あいつはド近眼で、夜などまったく見えない。それでも見逃すまいとキョロキョロしている。黙っていくのは簡単だったが、それではあいつが可愛そうなので、
「おい福原」
と声をかけた。福原はびっくりして
「おお三浦か、君を捜してたんだ」
と言う。思ったとおりだ。
「そうだろうと思った。知らん顔で通ることも出来たが、それではお前が可愛そうなので、声をかけたんだ。どうか乃公を見たことはいうてくれるな」
というと福原も
「宜しい。君を捜したが見つけられなかったということにする。だが伊藤と井上が横浜に来てるぜ」
と忠告してくれた。翌朝、宿屋に県庁からの使いが来た。伊藤と井上の命令だという。しょうがないので2人に会いに行った。伊藤がいきなり
「貴様脱走する気だな。軍律を知らんのか」
と怒鳴る。乃公は
「去年西郷があれだけの人数を引き連れて無断で辞めていったのは脱走じゃないのか」
と言うと、伊藤も態度をガラリと変えて、
「君の気持ちはよくわかるが、ここはまげて東京に帰ってきてくれ」
と言うので、仕方なく帰った。

西南戦争の逸事
山縣という男は細かいことまでグチグチ言うので、参謀もあいつが来るのを嫌がっていた。そこで乃公は一計案じた。山縣が尋ねてきたとき、給仕役として、風呂にも入っていない薩摩の捕虜を使った。山縣は驚いて
「三浦こいつは賊じゃないか」
「ああ賊だよ。蚊遣り代わりに丁度良いんだ」
「もし火薬庫に火でもつけたらどうするんだ。剣呑だぜ」
「何心配ない」
気味が悪いのか、山縣は早々に立ち去った。
も一つある。陣中の暇つぶしに、誰が始めたのか、蟹の爪に艾を挟ませ火をつける。熱いので蟹は一生懸命右往左往する。遂には爪を挙げると、その拍子にポロっと爪が落ちる。これがなかなか面白い。そこへ山縣がやってきて、
「これは愉快じゃ、面白い」
と大変ご機嫌であった。その後、山縣のところに行くと、あのまじめな男が、蟹をいじめて、悦に入っているところだった。

木戸の死と洋行拒絶

乃公が九州にいる間に起きた一番悲しい出来事は、木戸の死である。木戸は誰よりも藩閥人事を憎んでいた。その点、乃公とまったく軌を一にしていた。木戸は、乃公への遺言として「もし三浦が尋ねてきたら、情実は病気より恐ろしい」と伝えてくれと、言ったそうだ。乃公は後に木戸の未亡人からそれを聞いた。
その後、高島と川路が洋行するので、乃公にも行けという話があった。そんな薩長のバランスを取るためだけに行かされるのは真っ平ごめんと、乃公はこの話を断固断ってしまった。

開拓使官有物払下事件
黒田らが起こしたこの事件は酷い事件だった。乃公は大山のところにねじ込んだ。大山も実に酷い話だと相槌を打ったが、結局何もしなかった。伊藤や井上も同類だった。そこで乃公は条公に訴えた。条公は黙って聞いておられたが、その後、お上に上奏された。そのとき「三浦がきて斯く斯く申しました」と奏聞されたと聞く。これで事件は破れたが、乃公は陸軍士官学校長に左遷された。

征清論打破
明治18年頃、乃公が帰朝すると、薩摩の連中が非常な征清論を唱えていた。海軍の仁礼、陸軍の高島、野津が尋ねてきて、非常な強硬論をぶった上、実は副使として行く西郷従道も同腹であると告げた。伊藤や井上にそのことを告げても、いや西郷は違う、大丈夫だと取り合わない。そこで乃公は西郷に直接会って化けの皮を剥いでやろうと考え、伊藤と井上にも来るように言った。後日、西郷の所へ乗り込むと、薩人が大勢集まっている。しかしいくら待っても伊藤も井上も来ない。「出し抜かれたか」と内心憤激したが、如何ともしがたい。開き直って連中の征清論を強硬に論駁したが、糠に釘である。そこで、「天津へお出でになったら、李鴻章の生き胆の欠片くらいは頂戴したいもので」と捨て台詞してその場を立ち去ると、その足で伊藤の家に飛び込んだ。
「何で来ないんだ(怒)」
「いや実は西郷からこんな手紙が来て」
それは「何もお構いできないので、ご多忙のお2人が来られても、かえって恐れ入る」との断り状。
「こんなもん無視して来ればいいじゃないか」
「それはそうだが」
「だからお前らは駄目なんだよ」

軍制改革論争
乃公が第一師団長のとき、皇族方から師団長、旅団長が紅葉館に招かれたことがあった。そのとき乃公は薩長藩閥人事打破を叫んだ。酒が入ると、薩人が3人、お盃いただきたいといって、来た。もとより喧嘩を売りに来たのだ。乃公は真っ向から迎え撃った。暫くして1人が
「やあ違うなあ」
と嘆声を挙げた。
「何が違う」
「聞くのと見るのとでは大違いだ」
と言い出した。形勢不利と思ったのか、後ろの方から
「誰々、議論じゃいかんぞ」
と叫ぶやつがいる。見ると乃木だ。乃公もカチンときて
「何だ帰薩、混血なんぞつくって」
とやった。すると乃木も怒って
「これはどうも言語道断だ」
と言うから、
「お前は後にしろ」
と言うと、向こうも陣を引いた。違うなあといったのは、第七師団長の永山武四郎であった。あれは正直な男で、段々話すうちに乃公の精神が分かったのだ。翌日乃木が3人の先輩将官に連れられてやって来た。
「議論じゃいかんというのは、腕力に訴えろという意味ではなく、酒にしろという意味で言ったんだ」
と弁解する。そんな風には聞こえんかったぞと詰れば、外の3人も同意見だった。しかし乃木も反省しているので、許すことにした。また乃公の方でも無礼なことを言ったが、貴様がそういう意味で言ったんでは無いと言うなら、乃公もこれを取り消すということで、一件落着した。
乃公はとにかく陸軍の大改革を望んでいた。そこで、田中光顕を立会い人に、山縣に論戦を挑んだ。ところが山縣は、
「君とは全く同意見だ」と言って、乃公の前ではいい顔ばかりする。ところが後になると、「我輩は賛成だが大山が反対だ」と大山を盾に使って婉曲に乃公の意見を取り上げない。これは山縣のいつもの手だ。大山は大山で、自分の意見が通らないなら辞職すると言い出す。すると薩人は皆、大臣が辞めるなら俺も辞めるときた。伊藤も井上もどうもやむを得ぬということで、乃公の熊本への左遷が決まったと、後に山田に聞いた。乃公は熊本には赴任せず、予備役となった。


続く