2・26事件特集(14)西原借款と民国の対独参戦

大隈内閣が倒れ、朝鮮総督寺内正毅が組閣の大命を受けた。寺内は現状維持派の最右翼で、袁世凱在世時にはこれを支持して、排袁派の田中義一らを梃子摺らせた人物であった。この、大隈内閣の打倒と寺内担ぎ出しに一役買ったのが、後藤新平と西原亀三郎であった。西原はさらに寺内に進言して、朝鮮銀行総裁勝田主計を蔵相に据えた。彼は以前にも、勝田を鮮銀総裁にするよう、寺内に献策している。

西原はかつて、対露同志会の神鞭知常のスタッフを務めていたことがあり、彼の王道主義に深く傾倒していた。西原の持論は、徹底的に中国に親切を尽くし、中国民をして日本を信頼させるとともに、中国の内政、産業を改革し、日中が一体化した経済自給圏をうちたてるというものであった。彼のこの構想の下に行われたのが、西原借款であった。

西原の持ちかけた借款の条件は、従来のそれとは比較にならない有利なものであったため、段祺瑞政府は随喜した。この交渉で日本側の窓口となったのが西原と坂西利八郎であり、中国側の窓口が、新交通系と称される曹汝霖、陸宗與らであった。ひとり西原は完全な私人であった。

西原はこれを梃子に、中国を連合国に加盟させようと策動を開始した。しかし当時北京では、連合国加盟賛成の段祺瑞政府及びそれに同調する梁啓超ら研究系と、反対の大総統黎元洪との間で激しい争いがあった(府院の争い)。民国6年3月4日、何とか対独国交断絶までもってきたが、5月23日、遂に黎元洪は段祺瑞を罷免した。

ここで、調停を名目に北京に進出してきたのが張勲である。彼は北京に入ると議会を解散し、変法派の康有為を上海から呼び寄せ、宣統帝を担ぎ出し、7月1日清朝復辟を宣言した。驚いた黎元洪は、先頃までの喧嘩相手だった段祺瑞に国務総理復帰を命じると、自らは日本大使館に逃げ込んだ。得たりかしこと討逆軍を編成した段は、あっさりと張勲の復辟を粉砕し、北京に返り咲いた。張勲はオランダ公使館に逃げ込み、黎元洪は責任をとって大総統を辞職、段のライバル馮国璋が後を継いだ。

8月14日、中華民国は対独宣戦布告を行った。これを受けて南方派は、広州に於いて非常会議を招集し、中華民国軍政府を組織。9月1日、孫文大元帥に、唐継尭、陸栄廷を元帥に選出した。しかし唐、陸の二人は孫文の要請を受けても、元帥に就任しなかった。彼らは一応段政府(安徽派)には反対の立場で、独立を唱えてはいたが、孫文の軍政府に協力する気はさらさら無かった。とくに陸栄廷の場合は、馮国璋ら直隷派と気脈を通じており、極力軍政府の活動を妨害した。民国7年5月20日、軍政府が合議制に改組されると、孫文は陳烱明に後事を託して、上海に落ち延びていった。