2・26事件特集(12)帝位を望む袁世凱と第三革命

日本に亡命してきた孫文は中華革命党を結成した。しかしその、孫文個人に忠誠を誓わせる規約に反発した黄興らが離脱。黄興は渡米した。離脱組は後に欧事研究会を結成する。

一方第二革命を圧殺した袁世凱は、宋教仁暗殺の関係者を口封じに次々殺し、大総統選挙法を制定すると、正式に大総統に就任、国民党を解散させた。更に国会を解散させ、国務院を廃止すると、総統府に政事堂と統率弁事処を設け、自ら政治と軍事を総攬した。そして革命には参加しなかったものの要注意人物である雲南都督蔡鍔、湖北都督黎元洪を呼び寄せ、警戒した。

日本はというと、袁で治まっているのだからそれでいいという現状維持派と、欧米の影響の強い袁を打倒して日本の権益を確保せよという反袁派が入り乱れており、袁打倒を標榜する勢力も孫文ら南方勢力に肩入れする一派や、北方の宗社党に肩入れする一派で混沌としていた。ちなみに北一輝はこのころ譚人鳳を連れて大隈重信と会談するなどしている。当時大隈の秘書をしていた永井柳太郎との関係このときから始まる。

第二革命の最中、兗州、漢口、南京で日本人が北軍により暴行殺害される事件が相次ぎ、対支強硬論が沸騰。外務政務局長阿部守太郎が刺殺された。犯人の一人は自決、もう一人も逮捕され、共謀したとして岩田愛之助も自首してきた。岩田の背後には内田良平ら大陸積極進出派の右翼勢力がいた。そんな中フランツフェルディナンドの暗殺から第一次世界大戦が勃発。これを好機と見た大隈内閣加藤高明外相は、懸案事項を一気に片付けようと、いわゆる対支二十一か条要求を袁世凱に突きつけた。これを受けて支那世論は排日一色となり、同時に反袁気分も高まった。結局袁は日本の最後通牒を受けて、これを飲むが、この最後通牒は袁の要請を受けてのものとの説もある。とにかく5月9日は国恥記念日となった。

日本との交渉が妥結すると、袁の帝位を望む動きは加速した。民国4年8月、陽度らによって籌安会が結成され、参政院が国体変更の請願書を提出、段芝貴らが全国請願連合会を結成した。12月11日、参政院が袁を皇帝に推挙、翌日彼はこれを承け即位を宣言、元号を洪憲とした。

袁の即位宣言から約10日後、かねてより梁啓超と帝制反対について密談を重ねていた蔡鍔が雲南に入り、雲南省の独立を通電、唐継尭、李烈鈞と護国軍を組織し、挙兵した。

この帝制にはアメリカ人顧問グッドノーや英国公使ジョーダンも賛成であった。しかし日本政府はこれに賛同せず、袁側の必死の工作も実らず、帝制延期勧告を突きつけてきた。

しかし何より袁にとって痛かったのは、段祺瑞、馮国璋の二大宿将がこの帝制に消極的であったことであった。陸軍総長であった段は、統率弁事処の設置によって自らの権力がそがれたことを不快として隠棲し、袁とは疎遠になっていた。一方の馮国璋の方にも、梁啓超接触しており、護国軍に同情的であるとされた。この二人のサボタージュを前に、袁の護国軍討伐はうまくいかず、結局民国5年3月22日、袁は帝制の取り消しを発表した。

国務総理に就いた段祺瑞は、護国軍との和平にあたる一方で、袁を退位させ自ら大総統に就任すべく、運動を始めた。馮国璋も、張勲らを誘って南京会議を開き、八ヵ条の和平条件を提案して、護国軍との交渉の主導権を握ろうと策動した。しかし二人の跡目争いの決着がつく前に、袁世凱は急死してしまう。結局約法通り黎元洪が後任の大総統に就任、段、馮も渋々それを承認した。

北が袁の帝制を承けて執筆を開始した支那革命外史は、帝制崩壊後の4月に完成した。