2・26事件特集(8)機密費事件

田中の同期、山梨半造。彼もまた、兄貴分田中の後を追っての政界入りを望んでおり、政友会と政友本党の間を長い間ウロチョロしていた。頭脳綿密な上に政治も金も大好きの彼は、「英国式の二大政党を樹立するのだ」と政本合同に奔走していたが、遂に本党を見捨てたらしく、お土産持参での政友会入りを画策した。しかしそれがマスコミにばれた。政友本党も、党を撹乱したとして山半を糾弾する。

陸相宇垣は日記に、”世間が言うように、田中が山半の黒幕としているのなら、彼も案外知恵の無い人である”と書き、また”先輩が後輩の尻拭いをするのは当たり前だが、最近は後輩が先輩の尻拭いばかりしている”と嘆いた。同じころ、貴族院大井成元が、”売名か本気か軍部攻撃か訳のわからぬ”陸軍大臣文官論をぶって、宇垣をいらつかせている。宇垣はこの先輩に対し”お前のような馬鹿は話にならぬ”という態度で反論を加えた。

しかしそんな宇垣を更に激昂させる演説が、与党憲政会の中野正剛によって行われた。機密費に関しての田中以下当時の陸軍省幹部に対する弾劾演説である。それではこの機密費問題とはどのようなものか?

発端はくだらない事件からである。大臣官房附の二等主計三瓶俊治が収賄の容疑で憲兵隊の取調べを受けた。そこで余罪を厳しく追及された三瓶は、陸軍省から機密費の一部である公債を持ち出したことを自供した。驚いた憲兵隊は、すぐに高級副官松木直亮に報告。ことの重大さから、取調べは中止され、三瓶は免官処分を受けただけで釈放された。ところが、これを嗅ぎ付けた一団があった。

在郷将官で構成される恢弘会という団体があった。会長は無派閥の一戸兵衛であったが、その下に立花小一郎福田雅太郎町田経宇、井戸川辰三、石光真臣といった反田中の将官がいた。さらに彼らの手先として小山秋作という大佐がいた。この小山が三瓶に接触してきた。何故か?

当時田中には一つの疑惑があった。彼は政友会総裁に就任するとき、多額の政治資金を手土産とした(当時の噂では300万円)。その金は神戸の高利貸し乾新兵衛から借りたものであったが、高利貸しの乾が無担保でそんな大金を貸すわけがない。田中は、公債を担保にその大金を借りたというのである。

三瓶の公債持ち出しを聞いて、恢弘会の面々はピンときた。田中が担保に差し出したという公債は、この陸軍省の機密費で購入した公債ではないか。小山に問い詰められて遂に三瓶は、機密費が陸相以下の個人名義でいくつかの口座に預金されていること、その金で公債も買われたこと、そして田中が担保に差し出したとされる公債は恐らくこの公債に違いないという推測まで喋った。

彼等に強要されて遂に三瓶は告発に踏み切った。被告は田中義一と山梨半造である。
・大正9年8月、告発人が陸軍省官房附となった当時、官房の金庫には800万円以上の預金証書があり、その名義は大臣田中義一、次官山梨半造、軍務局長菅野尚一、高級副官松木直亮となっていた。
・前期預金は逐次無記名国庫公債に切り換えられ、その購買には遠藤主計と告発人があたった。
・定期預金公及び公債には正規の帳簿を使わず、小さい手簿に記載するのみで、その手簿は松木が管理していた。
・山梨の後任尾野実信には、一切秘密にされた。
・菅野の後任畑英太郎名義の預金は無し。
・定期の利子は松木が個人名義で預金し、私用しており、彼はこれを「別途保管」と読んでいた。
・公債などは、告発人が松木より一寸持って来いと命ぜられて持参することもあったが、如何に処置されたかはまったく不明。

告発の内容は大体こんな感じであった。

菅野松木はともに長州であり、会津で宇垣の腹心。尾野は福岡で、上原系の人物であった。付け加えるなら、このとき軍事課長であったのが、佐賀の真崎甚三郎であり、彼はこの機密費の扱いに関して意見して、軍事課長を辞めさせられたといわれている。

同時に三瓶は覚書を発表。これには、問題の機密費はシベリア出兵の時の軍事費からくすねたものであり、第十四師団が押収した1千万ルーブル相当の金塊も、当時大臣であった山梨がどこかへ運び去ったということが書かれていた。これなどは単なる主計の三瓶が知りうる内容ではなく、実際は恢弘会の面々が書いたものである。

更に彼は変装して居場所を転々としながら、「国家のために真実を語って欲しい」と、遠藤主計正に公開状を送った。その中で目を引くのは、故児島惣次郎次官が、死の間際まで「秘密が三瓶の口から漏れたらわれわれは一大事だ」と語っていたという話だ。

恢弘会は立花、石光らの連名で田中処分の意見書を陸相に提出。前述中野が弾劾に使った情報は、これらから得たものであった。

しかし宇垣は、”今日の憲政会の態度は何のザマだ。戦うなら正々堂々来い。本能寺の敵に対して陸軍を巻き添えにせんとする態度は卑劣である”と激怒。翌日、若槻礼次郎に詰め寄った。若槻は驚いて、院内総務を参集し、会議の結果、会内不統一を宇垣に陳謝し、幹部以下を厳戒に処したことを告げた。中野も田中武雄を介して「町田経宇に誤られて失体を来たしたり」陳謝、宇垣も一応それを諒とした。

翌々日、宇垣は町田を呼びつけ、中野の演説や三瓶の告発を支援したかと問い詰めた。町田は極力これを否定したが、宇垣はその裏に彼らの活動の機微を察知したという。日記に”在郷者間清掃の機運は来たり”と書いている。更に数日後、今度は立花と会見し、中野に陸軍攻撃の材料を与えたかと詰問した。立花は、単に石光より意見書を受け取り一読したが無価値なものであるので、放擲していただけで、決して術策を弄したりはしていないと、責任を石光になすりつけた。

政友会を攻撃するつもりだった憲政会は、宇垣の思わぬ怒りを買い、その矛先は一気に鈍らせた。在郷の将官たちも、満身に精力溢れたるこの当時の宇垣には太刀打ちできなかった。宇垣がここまで怒ったのは、田中や山梨を助けるためではなく、この問題が陸軍に及び、その権威を傷つけるからであった。しかし勿論、宇垣自身次官として田中に仕えており、機密費に全くノータッチという訳ではないわけで、その辺のこともあるだろう。逆切れというか気迫勝ちである。

そんな中、告発人の三瓶が「懺悔録」を発表し、告発の内容はすべて嘘であると言い出し、世間を驚かせた。しかし彼は、内容は嘘であるが、告発は取り下げないとして、本門寺に逃げ込んだ。

中野の演説に怒った政友会が中野攻撃に持ち出したのが、後に中野自決の一因とされることもある「中野露探疑惑」である。しかしこれはあまりに荒唐無稽で、査問委員会も、”中野がロシアより金銭を収受して赤化宣伝をなしたという証拠はない”と完全に否定している。

検察では石田検事が精力的にこの事件について捜査していた。そんな折も折、松島遊郭事件と朴烈事件が起き、議会の関心はそちらへ移っていった。松島遊郭事件は、松島遊郭移転にあたって憲政会の箕浦勝人が多額の金銭を収受したというものであり、これも石田検事が担当した。

ところがその石田検事が、大正15年10月30日、東海道線蒲田大森間の線路で怪死した。当然捜査は他の検事に引き継がれ、結果、箕浦は無罪となり、田中の件も証拠不十分で不起訴となった。石田検事の死についてはこれを殺しと見る向きもあるようだが、どんなものか。

検察の最終意見は
・確かに山梨らの個人名義の口座はあるが、それらをよく調べてみると、次官、局長などの異動の時期と名義の変更の時期が一致しており、個人名義なれど個人の預金には非ず、官吏としてこれを保管しておること明白である。
・告発人が無いといっていた尾野、畑名義の口座もちゃんとあった。
・シベリア出兵の金塊に関しても証拠無し。
・告発人は田中が公債を担保に乾より金を借りたというが、調べてみてもそのような具体的証拠は無く、却って、田中乾間の折衝にあたり、田中を謝礼不払いの件で告発した佐藤繁吉、菅沼広助によれば、田中が乾より百数十万円を引き出したとき、公債を担保にするようなことは無かった。

と、このような感じであった。要するに、機密費を個人名義の預金にするというやり方は、代々陸軍省がやってきた手法であり、格別田中だけを問題にするにはあたらないということである(宇垣名義の口座も勿論あった)。

ちなみに田中が乾から借金するとき、保証人となったのは久原房之助であるとする説もある。いや無担保であるという人(殖田俊吉)もいるが、これは当の乾が、田中を見込んで貸したが無担保ではないとインタビューに答えている。いずれにせよ、当時の田中を知る人の一致した田中評は、彼が金銭に非常に清潔であったという点である。また無理をしなくてもかなりの金が自然に集まってきたともいう。

今も昔も政治家は表に出せない金が必要である。ただ田中の場合、借りた相手が有名な高利貸しであったことが、問題をより一層スキャンダラスなものにしたのではないだろうか。陸軍時代の機密費の使い途はともかく、政治資金に公債を流用したという点は恐らく白であろう。大体、多額の公債など持っているなら、態々目立つ乾からなど借りるのはおかしいだろう。ちなみに上原の腹心で恢弘会メンバーでもある井戸川は、田中を批判する牧野信顕に対して、「いやあれは陸軍が昔からやってきたことで」と言っている。反田中にして床次政権誕生を夢見て暗躍していたというこの将軍ですら、この態度なのである。機密費というのはやはり、派閥を問わず触れられたくない部分なのだろう。



本稿は宇垣日記、田崎末松『評伝田中義一』他を参考にした。