2・26事件特集(7)政党と軍人

大正13年3月、宇垣陸相の元に、内野辰次郎(1期)から一通の手紙が届いた。要約すると

”先ごろ突然妙なお願いをしたこと、定めし驚かれたことでしょう。このたびは更に立ち入って小生の意見を開陳したいと思います。陸軍は元来非常に宣伝が下手で、宣伝機関さえ持ち合わせず、そのため、軍事の素人である尾崎犬養の輩に好き放題言われっぱなしです。しかし之に満足に反論することすらできません。小生は之を、ひとえに議会に軍人出身の議員が少ないことに起因すると考えます。軍は仙波(太郎)が通った通ったと喜んでいますが、彼一人ではどうにもなりません。もっと軍をあげて将軍連を議会に送り込む努力をすべきです。やる気のある将軍達もいることはいます。しかし、運動費に考えが及ぶと、みな鬱屈として出馬を取りやめざるを得ないしだいです。聞くところによれば、堀内(文次郎)、蜷川(?蟻川五郎作か)外一、二の将軍がこのたびの選挙に立候補を考えているとか。陸相は今こそ機密費を善用し、これらの将軍を議会に送り込む努力をすべきです。”

内野は蛮勇をもって知られる人物で、第七師団長を最後に現役を退いた予備役中将である。宇垣とは同期にあたる。彼が書くように、このころ陸軍出身の衆議院議員は、岐阜から出た仙波太郎や、奈良から出た津野田是重くらいのものであった。この手紙、このころの世相や軍人を取り巻く情況を現していてなかなか面白いと思う。

ちなみに先般のお願いというのは、内野自身の選挙費用の借用だったようだ。彼自身清浦内閣解散による今度の総選挙に出馬する意思を、このころほぼ固めており、そのために運動費として、五千から一万ほど欲しいと、宇垣に訴えていた。宇垣が出したかどうかは知らないが、内野はこの選挙で勝利し、以後4回連続で当選した。この選挙では外に、長岡外史町野武馬が当選した。

一方で、三顧の礼でもって政党入りした軍人もいる。田中義一である。三浦観樹の斡旋で、清浦超然内閣に反抗する形でできた護憲三派の連携は、横田千之助の急逝を契機に崩れ始めた。政友会総裁高橋是清は引退を決意。後任に田中を望んだ。第一次山本内閣のとき、陸海軍の予算配分において、田中が「軍艦には艦齢があるから海軍が先じゃ」と自ら譲歩したことや、高橋が参謀本部廃止論をぶち上げたときに、激昂することなく黙ってそれを聞いていた態度から、高橋は田中を”一介の武弁にあらず”と非常に高く評価していた。

4月3日、高橋は加藤首相に対し、農商務大臣辞任と政界引退を伝え、同時に田中を総裁として迎えることも明らかにした。4月9日、田中依願予備役。14日、第5代立憲政友会総裁就任。

加藤内閣は新総裁の入閣を強く求め、宇垣などを使って運動したが、田中はこれを拒否し、代わりに野田、岡崎が入閣した。総裁となった田中は、革新倶楽部中正倶楽部との合併を成立させる。犬養は合併と同時に田中らの制止を振り切って政界を引退、内閣は犬養の後任に、憲政会の安達謙蔵をもって充てた。いよいよ憲政会政友会の亀裂は大きくなる。

7月31日、遂に加藤内閣は閣内不一致を理由に総辞職、大命は再び加藤に降り、憲政会の単独政権となった。政友会は床次の政友本党との合併を画策するが、本党側の内部事情で流れた。後に本党は憲政会に接近、之をきっかけに分裂した。

ひとまず党勢拡大に成功した田中総裁であったが、大正15年の第51議会において、晴天の霹靂ともいうべき爆弾が破裂する。