2・26事件特集(4)続・軍縮

当時の陸海軍人を取り巻く環境は、それこそ昔の自衛隊以下だったという人もいるくらい、悲惨なものでした。ただでさえつぶしの利かない上に、そのような状況下で行われるリストラは、職業軍人にとって恐怖そのものでした。宇垣もそういった人々の処遇について無関心だったわけではありません。陸軍現役将校配属令は宇垣が以前から暖めていたアイデアであり、戦争に於いて必ず欠乏をきたす下級将校の補充をより円滑にするために、学生層に軍事知識を植え付けることを第一の目的としていました。しかしもうひとつ、聯隊を廃止され行き場のなくなった現役将校を救済するという役割もありました。この学校教練がその後どれほど役に立ったかを考えると、宇垣の見識はやはり相当なものと云わざるを得ません。

また、反軍思想が渦巻く中、各方面に渡をつけ、この配属将校制度を実現するのに大きな役割を果たしたのが、軍事課高級課員だった偉材永田鉄山中佐でした。

しかし勿論配属将校だけで、すべてのリストラ対象者が救えるわけはありません。多くの将校が恨みを呑んで予備役に編入されました。宇垣は廃止四個師団の中に郷里岡山の第十七師団を含めるなど、率先垂範を示しましたが、それがリストラ将校たちの気持ちをどれほど緩和し得たでしょうか。軍旗を奉還することとなった十六個聯隊の悲嘆は筆舌に尽くしがたいものがありました。

中岡弥高(13期)は明治時代、長きに渡って人事局長を務めた中岡黙少将の長男であり、宇垣とは同郷で、また若い頃からよく知る間柄であったそうです。彼はその親近感から、陸軍省の庭で乗馬中の宇垣に対して、井出宣時秘書官(21期)の制止を振り切り、「この際、潔く軍を退かれてはいかがですか」と直諫しました。宇垣はそれに対し「マー、それには及ぶまい」と答えたそうです。(額田前掲書)中岡はその宇垣の表情に、国家国軍のため今後いかなる苦難にも立ち向かっていこうとする気迫を感じたそうですが、中岡にこのような勧告をさせるほど、当時の宇垣に対する風当たりはきつかったのです。

しかし別れがあれば出会いもあります。末松太平は陸士予科を卒業すると、故郷とは正反対の青森歩兵第五聯隊に配属されました。丁度同じ時期、歩五に廃止された弘前五十二聯隊より一群の将校が転属してきました。その中に歩兵少尉大岸頼好がいたのです。末松はすぐに大岸に引き込まれ、以後国家革新に没頭していくことになります。本科に戻ると航空兵科に志願するつもりだった末松は、結局それを取止めます。大岸の許に帰ろう。末松に航空兵志願を取止めさせたのは、そういう思いでした。宇垣による軍備整理によって偶然にも引き合わされた二人は、こうして生涯分かたれる事のない盟友となったのです。

強い反対が十分予想される中、宇垣をして、四個師団廃止に踏み切らせたのは、日本軍が近代化に於いて、欧米列強に大きく遅れをとっていることへの危機感でした。宇垣は常備師団を削ることで予算を浮かし、それで新たな部隊を編制し、新式装備を取り入れました。また、航空兵科の独立と、航空部の航空本部への格上げ、飛行大隊の飛行聯隊への拡張もみました。宇垣を助け空軍発展に尽力したのが、後の大将、陸軍航空の父、井上幾太郎でした。

それでは、上原元帥などこれらの宇垣改革に反対した人々は、機械力を軽視したアナクロ人間なのかといえば、そうともいえないでしょう。特に上原元帥は何といってもテクノロジー兵科である工兵科の文字通りパイオニアであり、老人になってからも、フランスから本を取り寄せて読み漁る、知識欲の化け物のような人でした。新兵器への関心の高さも、第一次世界大戦でイギリス軍に従軍した今村均本間雅晴が、元帥のところに報告に行って、ギュウギュウ締め上げられた話(今村均『私記・一軍人六十年の哀歓』)からも明らかです。それでは何故反対したのか。それを突き詰めていくと結局戦略思想の差異ということになるでしょう。強力な常備兵力を持ち、緒戦においてそれを叩きつけ、早く勝負を決める速戦即決主義と、縦深に戦力をとり、長期戦に備える総力戦思想。日本の国力を考えれば、総力戦などできないという、ある種の開き直りから前者の主義を取った人々が、戦略単位である師団の削減に強く反対したのです。この両者の対立は世代を超えて続くことになります。

ちなみに上原は航空兵科の独立にも強く反対しましたが、こちらははっきりいってセクショナリズムの発露と見るべきでしょう。当時、航空は工兵の領分でした。上原は飛行機にも強い関心がありました。フォール大佐の航空団が来日したときには、一行の若い将校を捉まえると、得意のフランス語でギュウギュウ絞り上げ、航空に関する知識を吸い上げました。上原から開放された若い将校は、大山柏に対して、あんな恐い親爺はフランスにはいないとこぼしたそうです。工兵の育ての親である上原としては、是が非でも航空を放したくなかったでしょう。しかし、航空兵科の独立を訴えた井上中将も工兵科でした。彼は長州出身ではありますが、例え長州でなくても大将までなっただろうと、辛辣な評論家からも評されるくらいの逸材でした。

とにかく、こうして見たとおり、宇垣軍縮というのは、予算面から見ればさしたる節減ではなく、宇垣の言うとおり、軍縮ではなく軍備整理でした。しかし、世間も政党も陸軍すらもこれを軍縮と見ました。政党は宇垣に高い評価を与えました。伊藤正徳によれば、加藤高明若槻礼次郎浜口雄幸の三人が加藤邸で会談したとき、加藤が「宇垣は立派な男である、陸軍に彼の如き人物が居れば大丈夫だ」と云うと、他の二人も口を揃えて賛成したそうです。(伊藤前掲書)一方陸軍には反宇垣感情が深く沈殿しました。しかし、それが噴出するのはずっと先のことです。