2・26事件特集(3)軍縮

さて宇垣軍縮に触れる前に山梨による軍縮を見てみます。大正11年に山梨陸相の下、断行された軍備整理は、各歩兵聯隊より三中隊を減じて一機関銃隊をつくり、各騎兵聯隊より一中隊を減じて騎兵旅団に機関銃隊を新設するほか、野砲兵六聯隊と山砲兵、重砲兵各一大隊を廃止して野戦重砲兵旅団司令部と同聯隊各二ならびに騎砲兵一大隊と飛行二大隊を新設するという内容だった。その結果、将校二千二百六十八名、下士官兵五万七千二百九十六名と馬匹一万三千頭の減員となり、三千六百万円の節減となったが、世間は納得せず翌年第二次整理として、鉄道材料廠一、軍楽隊二、台湾歩兵大隊二と仙台地方幼年学校の廃止が決定された。(額田坦『陸軍に裏切られた陸軍大将』より)

この軍備整理に対して宇垣は
コネ廻したる軍縮案、当局の詭弁的に所謂整理案も七月中旬漸不完全ながらも目鼻が付きたらしい。・・・衆智に訴え公論に聞きもせず十二属僚の狭隘なる浅薄なる智嚢より案出せられたるが如き観ある案は、・・・外部よりツツキ廻はされて譲歩に譲歩を重ね改変に改変を加えて、奇形児の誕生を見るの域に達したり。
と酷評を加えてます。しかし一方でこういう記述もあります。
新兵器の採用は少数なれども先ず為さざるに優る。人事行政のほうも何等巧妙なる手段も認めぬが多少目鼻が付きかけた処位で微温的である。殊に教育施設の改新に手を就けざりし処は、如何に弁解するも整理と云ふより軍縮たらしめたと云はねばならぬ。
軍縮はいかんが整理はやらねばならない”というわけです。特に注目すべきは教育云々のところ。これを読む限り、宇垣の脳内ではすでに、後の宇垣軍縮のエッセンスは出来上がってたようです。やはり只者ではないですね。「僕が一番陸軍をうまく整理できるんだ」(CV:古(ry)

シベリア出兵の旗振り役だった田中義一が入閣と共に撤兵にシフトチェンジしたのと同じように、宇垣も入閣するや直ちに調査会を設け、軍制改革について調査を開始し、その結果を元に軍備整理案を纏めると、軍事参議官会議に提出しました。宇垣は云う。「内には整理の実現に反対し、外には尚大袈裟の整理を迫る、此内外の反対を逆手に利用して自己の信念通りの案を成立せしむることにした。

軍事参議官会議では上原、福田、尾野、町田が最後まで強硬に反対、河合、大庭、田中、山梨は最終的には賛成にまわった。特に福田の反対は執拗で、政党に屈する軍の前途を憂い、戦力の基幹を減節する師団廃止を國軍の為に悲しみ、恰も陸相を軍の反逆者とするが如き口吻さえもらしたという。(伊藤正徳軍閥興亡史』より)
しかし宇垣は屈せず、元老奥元帥を口説き落とし、5対4で会議を乗り切った。
大正14年5月1日に執行されたその整理案の中身は、

  • 十三(高田)、十五(豊橋)、十七(岡山)、十八(久留米)の四個師団の廃止
  • 聯隊区司令部十六、衛戍病院五、幼年学校二の廃止
  • 戦車、高射砲聯隊各一、飛行聯隊二、台湾山砲兵聯隊一の新設
  • 通信学校及び自動車学校の新設
  • 軽機関銃、戦車、高射砲、自動車牽引砲、射撃器材などの近代化
  • 航空兵科の独立
    などであった。(額田前掲書)
    さらに陸軍現役将校配属令によって全国の中等学校以上に現役将校が配属せられ、軍事教練の振作が図られた。

    整理将兵三万六千九百人、馬匹五千六百頭。しかし予算の節減という面ではそれほどでもなかった。事実は軍縮というより軍備整理だった。しかし世間はこれを軍縮と呼んだ。未だにこの第三次の軍備整理は”宇垣軍縮”と呼ばれる。次回はこの”宇垣軍縮”への各界の反応と陸軍に与えた影響について考えてみます。

    補足
    この宇垣改革を支えた属僚たち
    次官:津野一輔
    軍務局長:畑 英太郎
    人事局長:長谷川直敏
    高級副官:中村孝太郎
    軍事課長:杉山 元
    歩兵課長:中屋良雄
    軍事課高級課員:永田鉄山