強妻谷玖満子

谷干城の夫人は非常にしっかりとした人で有名だった。西南の役で熊本城に籠城していたときには、鯉を釣ったら何十にも切り分けて部下に配ったし、自ら城外の空き家へ這い入り七輪や鍋をとってきて餅を焼いてはこれまた部下に配った。與倉智実夫人の分娩時には産婆をして娘を取り上げた。この娘が後に婿養子を貰ったが、それが與倉喜平中将である。

谷が農商務大臣のとき、官舎へ移れというものがあった。それを聞いた夫人は「山縣の不要になったものに谷が這入られぬ」と大憤激した。

以前三浦の回顧録のときにも取り上げたが、谷が高知県知事をすると言い出したときも、「如何に国の為とは言え、僅か一県の秩序回復のため、井上(馨)内相の下風に立ち、その節度を受けらるるとは、妾が生存中は断じて受け入れ難し」と頑張ったため、谷も遂にこの一件を思いとどまった。

谷の死後、故人を語るというような企画で一人だけ3回も登場している曽我祐準(出たがり)は、谷の病気が進んだのは、無理して伊藤博文の葬式に出たのもいけなかったが、前年に夫人を失ったのが大原因だと語っている。

ちなみにどうでもいい話だが、西南の役西郷どんの首級を発見したのは千田登文という少尉とその従兵の前田だった。この千田翁は今村均の最初の奥さんの父だったが、西郷の首級の件はずっと黙っていた。というのも西郷の首を見た山縣が、ぼろぼろ涙をこぼしたのを見て「悪い事をした。見つけるべきではなかった。考えの足りないことをした」と反省したからだった。ところがずっと後に曽我(おしゃべり)が報知新聞で連載していた「西南戦記」の中で、「少尉千田某、遂にこれをさがしあてたり」とぽろっと書いたために、金沢ではちょっとした騒ぎになった。「千田のおじい。この新聞に載ってる少尉千田某というのはあんたじゃないのか」と人に聞かれてやっと「そうじゃ」と認めた。