武者小路実篤、戦争支持派とは一線

http://www.asahi.com/culture/update/0104/TKY201001030235.html

小説「友情」などで知られる作家の武者小路実篤(むしゃのこうじ・さねあつ)(1885〜1976)が、中国人作家の魯迅(ろじん)の弟にあてた手紙の実物がみつかった。44年ごろのもので、第2次世界大戦中は戦争に協力的だったとされる実篤が、戦争末期には国策追従の文学者から一定の距離を持っていた様子が読み取れる。

 手紙は、魯迅の弟で文学者の周作人(1885〜1967)にあてたもの。周と、戦争支持派の作家片岡鉄兵との論争を仲裁する目的で書かれた。論争のきっかけは、43年8月に開かれた国策に協力する文学者の会議。知日派とされる周は参加せず、そんな周を片岡は国策に非協力的だと非難していた。

 手紙はペン書きで、原稿用紙5枚にしたためられている。封筒には筆で「周作人兄 武者小路実篤」と記されている。実篤は開戦時、戦争を賛美する文章を発表するなど、戦争に協力する姿勢を示していた。だが「皆も今更に君の存在の大きさを知った」と周に敬意を払い、国策協力一辺倒の片岡の発言には、「根拠のない発言」「場あたり的なものだ」と否定的。会議を開いた日本文学報国会についても「皆が同じ意見を持たなければならないのでしたら、僕はとっくに退会しています」と書き、戦争協力を強いられた時代に、周に共感して本音を漏らしている。最後に「君の三十余年の友情を感謝して」と添えている。

日本文学報国会については、逆にこういう話もある。自分のブログより孫引き。
近衛読書中隊 死ぬこと

昭和18年4月に軍人会館で行われた日本文学報国会において、蓮田は石川達三を激しく非難した。会で石川が、「われわれ文学者も国策に則って大いに活動しなければならない」と話した直後、登壇した蓮田は、石川を指差し、「石川さんの今の発言には賛同できない」と大喝した。蓮田は、このようなときだからこそ、須佐之男のような「青山は枯山と哭き枯らす」壮大な喚び泣きの文学、慟哭の文学を創造しなければならないと訴えた。その後蓮田は「神がかり」と呼ばれるようになった